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第14話 板挟みの選択


いつもの不真面目な表情を消した黒沢直樹の顔には、珍しく真剣な色が浮かんでいた。その様子に、早川奈美は一瞬、言葉を失った。


結婚?


その二文字の衝撃は大きすぎて、彼女の最初の反応は「ありえない」だった。

あんな男が、たった一晩のことで結婚を口にするはずがない。

何より、彼の心にはまだ別の人がいる。たとえ結婚するにしても、相手が自分であるわけがない。


ほんの数秒の間に、奈美の頭には一つの可能性がよぎった――これはもしかしたら試しかもしれない。

黒沢に取り入ろうとする女は少なくないだろう。彼は自分もその一人だと誤解したか、あるいは、後々そのことをネタに騒がれることを警戒しているのかもしれない。


そう考えつくと、かえって彼女は落ち着きを取り戻した。「黒沢先生、私はあなたにそんな気はありませんから、ご心配なく」

そう言い切った瞬間、黒沢の瞳から笑みが消えた。深い漆黒の色が渦巻いた。


「そんな気が……ない?」低い声で問いかけながら、彼は一歩、また一歩と近づいてくる。

くっきりとした輪郭に光と影が揺れ、奈美は彼の奥深い瞳の奥に、かすかな……寂しげな影を、見たような気がした。


気のせい? 彼が寂しがるわけないじゃない。


距離が近すぎる。彼の熱い吐息が鼻先をかすめた。奈美の鼓動は抑えきれずに速まり、頬がほてった。思わず顔を背け、再び強調する。「ええ、ありません」

「じゃあ、その赤くなった頬は何だ?」黒沢の視線は彼女に釘づけだった。


奈美は言葉に詰まり、思わず自分の頬に触れた。赤くなっている?

恥ずかしさというより、あの侵略的な美貌を前にして、誰だって平静ではいられないからだ。彼の独特の気配に包まれ、あの夜の混乱した記憶が容易く呼び起こされる。

奇妙なことに、黒沢を前にするたび、奈美はなぜか懐かしいような気持ちに襲われ、この男は見た目ほどの「嫌な奴」ではないような、そんな気がしてしまうのだった。


そうは思っても、彼女は黒沢と関わりたくはなかった。早川家、山本家、翔太くん……枷は多すぎる。黒沢直樹と絡めば、すべてがさらに複雑になるだけだ。


奈美がぼんやりしている間にも、黒沢は再び口を開いた。磁性を帯びた声には、わざとらしくない誘惑が含まれていた。

「じゃあさ、もう一晩だけ、付き合ってくれないか? それで借りはチャラってことで」


「もう一晩?」

奈美の頭の中で、何かが弾ける音がした。

彼の口調に酒気はない。完全に正気だ。

結婚の話が試しだとしたら、この要求は何を意味するのか?


数秒のうちに、いくつもの可能性が奈美の頭を駆け巡り、一つの解釈に落ち着いた――あの夜、自分から始めたのに、真っ先に去ったのが彼の逆鱗に触れたのだ。

黒沢直樹のような男が、女に「使われて捨てられる」ことを許すはずがない。

だからこそ、何度も彼女の前に現れ、執拗に迫ってくるのだろう……。


奈美は深く息を吸い込み、彼の焼け付くような視線を避けながら、かすれ声で言った。「ダメです……私、その、体調が優れなくて」

口にした瞬間、後悔した。その言い方はまるで……次ならいいよ、と言っているようだった。


案の定、黒沢の口元に、全てを悟ったような笑みが浮かんだ。「わかった。じゃあ、また今度な」

どうにかその場は切り抜けられた。奈美が振り返って立ち去ろうとしたその時、手首が突然強く掴まれた。

訝しげな彼女の視線に応えるように、黒沢はスマートフォンを取り出した。「連絡先、登れ」

奈美は慌ててQRコードを読み取り、追加した。


「ピン」と音が鳴る。スマホの画面を見つめ、黒沢は興味深そうに、彼女が自動送信した挨拶文を読み上げた。

「『初めまして、電柱でお見かけしたものですが……?』」


奈美は瞬間的に石化した!

帰り道、不動産屋に寄ったら閉まっていて、入り口の電柱に貼ってあった賃貸の電話番号を適当に追加したんだ。さっき彼を追加した時、デフォルトの挨拶文を変え忘れていた!

「あ、あれは不動産屋さんで……」彼女は照れくさそうに説明した。


黒沢は眉をひそめた。「不動産屋になぜ?」

彼女と小林優衣の電話の内容を思い返し、何かを理解しかけたその時――

手の中のスマホが突然鳴り出した。


画面には「鈴木雅子」の名前が表示されていた。

黒沢は電話に出た。相手が何を言ったのか、彼の顔色が一瞬で険しくなった。挨拶もそこそこに、振り返らずに足早に個室を飛び出していった。

どうやら鈴木雅子という存在は、彼の中でやはり特別な位置を占めているらしい。


時計はすでに遅い時刻を指していた。奈美が会所を出ると、一台のタクシーがちょうど目の前に停まった。ドアを開けようとしたその時――

黒沢直樹がどこからともなく戻ってきて、慌てて助手席のドアを開けて乗り込むと、彼女に向かって「お前は次のを拾え!」と言い残す間もなく、

ドアが閉まり、車は猛スピードで走り去った。

奈美はその場に立ち尽くし、なぜかある言葉が頭をよぎった。

「好きな人に会う時は、走るものだ。」

その後二日間、黒沢直樹も鈴木雅子も病院に姿を見せなかった。

週末は患者が殺到し、奈美は日が暮れるまで働いた。病院を出たところで、緊急出張の連絡が入る。その夜の切符を買い、二百キロ離れた神奈美川県へ向かった。


宿泊先は車内で適当に予約した、現地の中心病院近く――心理科の新設に伴う技術交流のため、彼女が招かれたのだった。

落ち着いたのは真夜中近く。疲れ切った奈美はベッドに倒れ込むようにして眠りについた。


うつらうつらとスマホの着信音を聞いたような気がしたが、彼女は気にも留めなかった。

翌朝、一通の銀行からの通知メールで彼女は目を覚ました――

口座に膨大な金額が振り込まれていたのだ。

何度も桁を数え直して、ようやくそれが一千万円であることを確認した。

「一体どういうこと?」


明細を確認しようとしたその時、義兄の早川陽介から電話がかかってきた。

「奈美、神奈美川にいるのか?」

陽介は資金調達のため、ずっと外を飛び回っていた。もしかして、兄が振り込んだのか?

奈美は身支度をしながら尋ねた。「お兄ちゃん、お金の方は?」

「焼け石に水だよ」陽介の声には疲労がにじんでいた。

奈美は眉をひそめ、すぐさまスマホのネットバンキングを開いた。しかし振込人の情報は意図的に隠されており、確認できなかった。


「誰だ? こんな大金を、理由もなく振り込んでくるなんて?」

「翔太くん?」


諦めきれずに、お金でこれからも縛りつけようとしているのか?



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