神奈美川に早川陽介もいることを知り、二人は仕事が終わったら一緒にランチをすることにした。
電話を切ると、早川奈美は神奈美川中央病院へ向かった。
応対したのは、初々しさが滲む若い看護師だった。奈美を見て、彼女は目を丸くした。
「研修にいらした先生が、こんなにお若いんですか? 早川先生、私と同い年くらいに見えるのに、すごいです!」
「卒業したばかりは可能性の塊よ。あなたもきっと素晴らしい看護師になるわ」と奈美は微笑んだ。
「え? どうして私が卒業したばかりだと?」
看護師がきょとんと瞬きをしながら尋ね、奈美を職員用エレベーターへと案内した。
簡単な挨拶を交わし、エレベーターが地下一階から上がってきた。ドアが開いた瞬間、奈美は目をわずかに見開いた。
エレベーターは人でいっぱいだった。
白い診察着姿の集団。実習医、研修医、そして若干年長そうな若手医師たち。彼らが中心となって取り囲んでいる男への態度は、明らかに敬意を込めていた。
その中心人物こそが、黒沢直樹だった!
彼がこの二日間病院にいなかったのは、神奈美川に来ていたからか?
神奈美川の医療は比較的遅れており、難易度の高い手術ではよく東京から専門医を招く。帰国後の黒沢がその手腕を見せつけている以上、呼ばれるのも不思議ではない。
奈美は一瞬躊躇したが、それでも中へと足を踏み入れた。ドアが閉まり、狭い空間は一気に埋め尽くされた。
その時、指先が突然熱を帯びた!
思わず見下ろすと――黒沢直樹の骨ばった指が、人々の隙間を縫うようにして、そっと彼女の指を絡めていたのだ!
奈美は電流が走ったかのように手を引っ込め、胸の中で心臓が激しく暴れ、今にも飛び出しそうだった。
こんな表に出せない関係なのに、よくもまあ…!
幸い、エレベーターは混み合っていて、誰もこの密やかな接触には気づかなかった。
「奈美、二日も経てば俺のこと忘れたのか?」
黒沢は細めた目に笑みを浮かべて言った。
瞬間、エレベーター内の全ての視線が、奈美へと集中した。
彼女は平静を装い、わずかに体を向けて会釈した。「黒沢医師」
彼が親しげに「奈美」と呼んだのに対し、彼女がよそよそしい「黒沢医師」で返す。その落差に、周囲の者の目つきは微妙に変わり、僅か数秒の間に様々な憶測が巡ったに違いない。
奈美は彼が自重することを願った。噂が立ったら、自分にとっては面倒なことになる。
黒沢の笑みは深くなった。「昨夜着いたのか?」
「…はい」
「よく眠れたか?」
「…まあまあです」奈美は階数表示を睨みつけ、早くドアが開くことを祈った。
その願いを聞いたかのように、「チーン」と四階でエレベーターは止まった。
外科の一行が列をなして降りて行く。黒沢はわざと半歩遅れ、すれ違いざまに口元をほころばせ、声を潜めて言った。
「昼飯、一緒にどうだ?」
奈美は、陽介が午後には東京へ戻ることを思い出し、断らざるを得なかった。「人と約束してるんです。次回…なら?」
彼女は声を限りに小さくした。彼の面目を潰したくはなかった。
黒沢は奈美を深く見据えたが、何も言わず。かすかに笑い声を漏らすと、足早に去って行った。
エレベーターのドアが再び閉まった。若い看護師が二歩近づき、興味津々の目で尋ねた。
「早川先生、黒沢医師とお知り合いなんですか?」
「いえ、それほどでも…」
「そんなことないですよ! 『奈美』って呼ばれてるし、食事にも誘われてますよ!」
看護師は合点がいったように目を輝かせた。
「わかった! 黒沢医師、先生にアプローチ中ですね!」
奈美:「…」
二百キロ離れていて噂は東京まで届きにくいとはいえ、彼女は説明した。「そういうわけじゃないんです」
看護師は小さなえくぼを浮かべて笑った。「わかりますわかります! 彼がアタックしてるけど、先生はまだお返事してないんでしょ! 安心して、口は固いですからね!」
奈美は呆れてため息をつき、もう黙っていることにした。
精神科に着くと、早川は診察着に着替えた。東京の大病院から来た専門医と知り、本院の数人の精神科医たちは非常に熱心だった。
彼女が昨夜ホテルに泊まったと聞き、年配の医師がすぐに院内の宿泊施設の手配を申し出てくれた。宿泊施設は病院の職員住宅街にあり、遠方からの医療従事者の短期滞在に便利だった。予定では、あと二日間滞在する。
部屋のキーを受け取り、奈美は礼を言った。「仕事が終わり次第、引っ越してきます」
午後一時半、ようやく奈美は息ついて昼食をとれる時間ができた。携帯電話を取り出すと、着信履歴に三件の不在着信――全て陽介からのものだった。仕事中はサイレントモードにしていたため気づかなかった。慌てて折り返し電話をかけた。
「兄さん、着いたの?」
「奈美、また時間通りに飯食ってないだろ?」陽介の声は呆れているようだった。
「ちょっと忙しくて…」
「病院の食堂で待ってる。早く来いよ」
奈美が食堂に着くと、陽介はもう料理を取って待っていた。数日ぶりに会った彼は少し痩せ、目に血走った様子だった。
彼女は胸を締め付けられる思いだった。「お金の件は…」
「金のことは心配するな、俺が何とかする」陽介は自分の皿の目玉焼きを彼女の丼にそっと移した。「言っとくけど、飯食ったらすぐに東京に戻らなきゃ。クライアントと会うんだ」
奈美はカードに眠る、出所不明の一千万円のことを考えた。会社の急場をしのぐために、これを一旦出すべきかどうか迷った。高橋翔太からの借金は先延ばしにできるかもしれないが、義父の会社は待ってはくれない…。
「兄さん、少しばかりお金を工面できたの。後で振り込むね」彼女は心を決めて言った。
陽介の箸が止まり、顔を上げた。「どこで工面したんだ?」
その言葉が終わらないうちに、一人の男がトレーを持ち、きわめて自然に奈美の隣の空いた席に腰を下ろした。
空気が瞬間に凍りついた。二人が同時に顔を向ける。
黒沢直樹がトレーを置き、その怠惰な視線を奈美に流し、口元を上げた。
「ここ、空いてるか? 相席させてもらうよ」
ランチタイムを過ぎた食堂はガランとしており、空席が目立っていた。
二人が呆気に取られているその一瞬の間に、黒沢はしっかりと腰を下ろしていた。
彼の体から漂う消毒液とほのかなタバコの混ざった匂いが、たちまち奈美を包み込んだ。
彼女は慌てて視線をそらし、うつむいて目玉焼きを一口齧った。しかし、胸の鼓動は完全に乱れていた。
彼女にははっきりわかっていた。
彼はわざとだ。
わざと彼女のそばに現れ、わざと陽介の注意を引こうとしたのだ。
それはちょうど、午前中にエレベーターの中で、わざと皆の面前で「奈美」と呼んだのと同じように。