向かい側に座っていた早川陽介は、早川奈美を一瞥し、怪訝そうな表情を浮かべてから、視線を黒沢直樹へと移した。
彼は鋭く、二人の間に何か言い表せない微妙な空気が流れていることに気づいたが、あえて問いただすことはしなかった。
黒沢直樹の登場で、それまでの会話は途切れ、食卓には一時、重い沈黙が降りた。
黒沢は食事の作法が上品で、味噌汁をすするのもゆっくりと時間をかける。ただの弁当が、彼の手にかかると高級料理店のように見え、本当にたまたま相席しただけの他人の振りをしているようだった。
しかし、その沈黙こそが、早川奈美の心臓を高く吊り上げた。まるで頭上で今にも落ちてきそうな扇風機に怯えるかのように、いつ何が起きるかわからない不安に襲われた。これまでの接触では、彼がこれほど無口だったことは一度もなかった。
気まずさを打ち破ろうと、早川奈美が口を開いた。
「黒沢先生、今がお昼ですか?」
黒沢直樹がうなずく。
「手術が終わったばかりで」
外科医の食生活が不規則なのは当たり前。複雑な手術になれば、十数時間立ちっぱなしも珍しくなく、体力と忍耐力が試される仕事だ。
奈美の瞳がかすかに揺れた。その時、向かいの陽介が落ち着いた口調で言った。
「黒沢直樹、久しぶりだな」
奈美ははっとした――兄が彼を知っている?
呼びかけに、黒沢直樹が顔を上げ、陽介をじっと見つめた。彼はわずかに眉をひそめ、どうやら全く記憶にないようだった。
陽介も気にした様子はなく、微笑みながら続けた。
「中学の時、同級生だったろ? お前、一年で辞めたけど…」
言葉を遮るように、黒沢がテーブルに置いた携帯電話が震えた。ちらりと画面を見ると、彼はトレイを手に立ち上がる。
「すまない。緊急手術が入った」
すらりとした背筋が、食堂の出口へと素早く消えた。
一陣の風が吹き、白衣の裾をひらつかせた。黒髪が陽の光に微かに輝き、少し眩しかった。
奈美の視線は、無意識にその背中を追っていた。否めない、黒沢直樹という男は強烈な吸引力を放っていた。
それを感じ取ったのか、黒沢は突然足を止め、透明なガラス窓越しに、まっすぐに奈美を見つめ返してきた。
奈美は慌てて目をそらそうとしたが、その瞬間、彼が手にした携帯を軽く揺らすのが見えた。次の瞬間、テーブルに置かれた彼女の携帯が二度震えた。
視線の端に入ったのは、どうやらLINEの着信通知らしい。奈美は唇をきっと結び、再び顔を上げた時には、窓の向こうの人影は消えていた。
画面を開くと、長く沈黙していたトークルームに赤い通知マークが点っている。
「今夜?」
奈美の指先が火傷したように熱く、一気に頬がほてり上がった。
入力欄に指を置きながら、彼女は長いこと逡巡したが、結局一文字も打たなかった。
あの日、彼女は「都合が悪い」と言い訳し、彼は「また今度」と返した。明らかに、その「今度」を今夜に設定しようとしているのだ。
奈美は深く息を吸い込み、最初に頭をよぎったのは拒絶の言葉だった。迷っているうちに、あることを突然思い出した。
「黒沢先生、これって…お金の取引ですか?」
「?」
「黙って一千万も振り込んで、それに送金者情報も隠すなんて…ただでくれるつもり?」
丸々二分間、返信はなかった。
トーク画面には「入力中…」の表示。奈美は息を詰めて待った。しかし一分後にもう一度見ると、その表示は彼の登録名に戻っていた。
彼は長文を打ち込み、そして消したのだ。
やはり、例の金は彼が振り込んだのだ。
奈美の周りで、一千万円を軽々と出せる人間など数えるほどしかおらず、しかも彼女が高橋翔太に一千万を返す必要があることを知っている人間となれば、更に少ない。黒沢直樹は、その数少ない人物の一人だった。
さらに二分が経ち、ようやくメッセージが届いた。
「手術室に入る。後で話す」
奈美は携帯を置き、彼の真意を推し量った。
二人の関係が、それほどの大金を受け取れるほど親密なはずがない。なぜ彼は、そんな損な役を買って出て、わざわざ身元を隠したのか?
男が女に理由もなく親切にするのは…考えられる可能性は、一つしか浮かばなかった。
彼は自分に恋している?
その考えは奈美に滑稽に思えた。知り合って半月、一夜を共にしただけで深い恋心が芽生えるものだろうか? それに何より、彼の手首の内側にある「R」のタトゥーは、「想い人」を意味する。それは鈴木雅子の「子」であって、自分の「奈美」ではない。
ならば、残る可能性はもう一つしかない。彼は、彼女が送金者を調べられることを見越し、わざと恩を売ったのだ。その目的は…何度も彼女を抱くこと?
そこまで考えが至ると、奈美はむしろ胸を撫で下ろした。測りかねる思惑に比べれば、明示された取引の方がずっとましだ。前者はリスクが大きすぎるが、後者なら少なくとも制御可能だ。
彼女はもう、十五歳の頃、野良犬から食べ物を奪い合った飢えた少女ではない。当時は実父の会社を救う力もなかったが、今、金のために高橋翔太と絡むくらいなら、黒沢直樹を選ぶ。
これまでの接触では、彼の思惑が読めないことはあったが、少なくとも彼女を実際に傷つけたことは一度もなかったのだから。
奈美は急いで高橋翔太に金を返そうとはせず、そのまま陽介に振り込んだ。
「兄ちゃん、この一千万で当面をしのいで」
陽介は呆気に取られた。
「奈美…? こんな大金、どこで?」
「黒沢直樹に借りたの」
陽介の顔に驚愕の色が走った。
「彼がそんな大金を…? なぜだ?」
自分が何日も駆けずり回ってようやく捻出した額が雀の涙ほどだったというのに、黒沢直樹が手ぶらで一千万を貸す?
奈美は少し間を置いて答えた。
「…彼は、金には困ってないみたいだから」
陽介は眉をひそめ、直感的に事態の複雑さを悟った。
「奈美、黒沢直樹には近づくな。あの男は…危険だ」
奈美は首をかしげた。
「どうして? 同級生だったんでしょ?」
「小学校を卒業した年、神奈川から東京に引っ越してきたばかりの時だ。父が俺を名門の私立に入れて、奴と同級になった」陽介の表情は険しくなった。
「だけど、中学一年が終わる頃に…奴は退学した」
「退学だけなら、転校かも?」
「転校ならまだしもだ」陽介は声を潜めた。
「奴には次兄がいた。黒沢慎一郎。奴よりほんの数ヶ月年上で、同じクラスだった。中学一年の夏休み…慎一郎が突然、足を折ったんだ。噂によると…黒沢直樹に…高いところから突き落とされたんだろう」