黒沢直樹は若くして海外へ渡り、そのまま十年もの歳月を異国の地で過ごした。帰国の回数は、片手で数えるほどしかなかった。
今回の突然の帰国と東京での定住。田中拓真は、最初から腑に落ちない部分があった。
今になってようやく分かった。なんと、それは一人の女性のためだったのだ。
しかし、ここ数年、黒沢と早川奈美は遠く離れ、全く接点もなかった。いったい、いつ、どうやって黒沢は彼女に想いを寄せるようになったのだろうか?
答えが出ず、田中は気になって仕方がなかった。だが、『声優オーディション』が間もなく始まることを思い出す。彼は会場で「銀座ナイチンゲール」を探さなければならない。好奇心は、いったん押し殺すしかなかった。
噂話はいつでも掘れる。今は仕事をして稼ぐことが大事だ!
一方、早川奈美は寮の部屋に戻ると、さっとシャワーを浴び、清潔な服に着替え、心理科で最後の事務処理を済ませた。
全てを終えたのは午後になってからだった。部屋に戻って荷物をまとめ、午後の新幹線で東京へ戻るチケットを予約しようとした。
折しもシルバーウィーク。チケットサイトには、東京行きの新幹線が今後一週間分すべて完売していると表示された。
連休は長いとはいえ、千葉県に七日間も滞在するわけにはいかない。
少し考えた早川は、スーツケースを引きながら、バスターミナル行きの高速バスに乗ることに決めた。
聖心記念病院の門を出たその時、一陣の風に舞い上がったチラシが、彼女の足元にひらりと落ちた。
早川が俯いて見ると、近くで『声優オーディション』が開催中だと書いてある。
彼女はチラシを拾い、思わず何度か見直した。少し離れた場所では人だかりができ、会場はすし詰め状態だった。一台の黒いセダンが目の前で停まった時、早川はようやく我に返った。
窓が降りると、黒沢直樹の端整な顔が現れた。彼は眉のあたりをわずかに上げて言った。「東京へ戻るのか?」
早川がうなずく。「ええ」
黒沢は簡潔に告げた。「乗れ」
彼は少し仮眠を取ったばかりらしく、声には寝起きの低い甘さとだるさが混ざっていた。
早川は一瞬、固まった。彼も戻るのか?
その上品でありながら禁欲的な雰囲気を漂わせた顔を見つめると、昨夜の熱い記憶が一気に蘇って抑えきれない……早川は胸を衝かれ、息を詰めながら、反射的に首を振った。同時にスマホを軽く揺らして見せて言った。「結構です。呼んだ車がもうすぐ来ますから」
黒沢の視線が彼女の顔に二秒ほど留まったが、何も言わなかった。窓が静かに上がり、車はすぐに走り去っていった。
テールランプが車の流れに消えていくのを見て、早川はほっと胸を撫で下ろした。千葉県から東京まで車で戻るには、少なくとも二、三時間はかかる。そんな長い時間、黒沢と二人きりで密閉された空間にいるなんて、考えるだけで気まずくて仕方なかった。
そもそも親しい間柄でもないのに、何を話せばいいのだろう?昨夜のことを振り返るわけにもいかない。
彼女は配車アプリを開き、東京行きの相乗りサービスを呼んだ。
すぐに運転手がオーダーを受けた。位置情報を見ると、それほど遠くないようだ。早川はその場で待った。運転手はUターン中らしく、連休の渋滞も重なって、しばらくは来そうになかった。手持ち無沙汰な彼女は、ついRNRを開いてしまった。
フォローしているブロガーは多くない。投稿を順に追っていくと、「RR」という名前のブロガーが投稿したばかりの画像付き記事が、突然彼女の目を引いた。
「RR:彼女との初めての朝明け。」
添えられた写真は、葉柄をつまんで空中に掲げられた一枚のイチョウの葉だった。金色の葉は葉脈がくっきりと浮かび上がり、まだ明けきらぬ微光の中にひときわ静けさをたたえていた。
投稿時刻に早川の目が釘付けになった——午前5時45分。
これは……何を意味するのだろう?
早川がRRをフォローしたのは数年前。彼女が卒業したばかりの頃で、システムがこのアカウントを勧めてきた。RRは男性の視点で、長年抱えてきた片思いの想いを綴っている。短い文章ながらも読む者の胸に刺さり、片思い経験を持つ多くのネットユーザーの共感を呼び、徐々にフォロワーを増やして、今ではちょっとした有名ネットブロガーとなっていた。
この投稿は明らかに、彼が片思いの相手とともに夜明けを迎えたことを告げているのか?
早川がコメント欄を開くと、既に多数のユーザーが祝福や進展への興味をコメントしていた。RRはまだ返信していない。彼女は軽く「いいね」を押そうとした。その瞬間、頭上に影が落ちた。
訝しげに顔を上げると、去ったはずの黒沢直樹の大きな影が、再び彼女の前に立っていた。午後の日差しが木々の枝葉の隙間を通り、彼のくっきりとした横顔に木漏れ日を落とし、言い表せない静謐感を纏わせている。
早川は呆然とした。行ったんじゃ……?
早川が我に返るより早く、黒沢は腕を組み、口元に含み笑いを浮かべながら、気だるげに尋ねた。
「1321?」
「え?」早川は一瞬、理解できなかった。
黒沢は低く笑った。片手をポケットに入れ、だるそうにスマホを取り出すと、画面をスライドさせて、そのまま彼女の目の前に差し出した。「携帯番号の下四桁1321。お前が呼んだ相乗りか?」
早川は瞬間、石化した。頭の中が真っ白になる。
まさか……こんな偶然があるものか?自分が出したオーダーを、黒沢が受けたというのか?
これはいったい、どんなありえない展開なんだ?
黒沢の体からは、入浴したばかりの清潔な匂いと、太陽の香りが混ざったような気配が、強く彼女の鼻をくすぐった。早川の頬が熱くなり、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
硬直した彼女を見て、黒沢はくるりと背を向けると、助手席のドアを開けた。重い視線が早川を捉える。
「乗るか?」
早川はようやく声を取り戻した。ここまで来ては、断る理由もなかった。
彼女は少し堅くなりながら助手席に座り、シートベルトを締めた。しかし心の中では思わずつぶやいてしまった。『黒沢さんに金が足りないはずないのに、どうして相乗りのドライバーなんかやっているんだ?』
「省エネ推進のためだ」黒沢はまるで彼女の心を見透かしたかのように、車のエンジンをかけ、彼女を一瞥して皮肉な口調で言った。「心配するな。車内でお前に何かしようと考えるほど、俺は狂ってはいない」
早川:「……」
彼女が心配していたのは、そういうことではなかった。ただ、どこか説明できない違和感を感じていただけだ。
それ以上は何も言わず、早川は俯いてスマホを操作するふりをした。気持ちを落ち着かせようとRRの投稿を開いたが、誤って押そうとした「いいね」を「♡」のスタンプにしてしまった。
送信成功の表示に一瞬悔やんだが、すぐに気にしないことにした。『どうせRRさんは私のことなんて知らないし、気にも留めないだろう』
連休中とあって、都心を出る道路は異常に混雑しており、高速道路に乗るだけでも一時間以上も費やした。
昨夜ほとんど寝ていないこと、そして早朝に緊急手術で呼び出されたことを思い出し、早川は黒沢が疲労運転にならないか心配になり、口を開いた。
「サービスエリアを通る時に、もし疲れていたら、少し休んだほうがいいですよ」
ハンドルを握る黒沢は、その言葉にまぶたを上げると、口元に含み笑いを浮かべて言った。
「つまり、俺を気にかけてくれてるのか?」