早川奈美は、わずかに距離を置いた口調で静かに言った。
「誤解なきようお願いします、黒沢さん。単に安全運転のためですから」
「安全?」黒沢直樹は早川の言葉には直接答えず、意味深に言い返した。
「そうだな、安全は大事だ。だから昨夜も、ちゃんと『防備』はしておいた」
「……」
あまりに突然の話題の転換に、彼女は平静を装うしかなかったが、無意識のうちに指先がこわばった。
車内が少し息苦しく感じられ、彼女は窓をほんの少し開けた。
そよ風がゆるやかに流れ込む。
高速道路に入ると、道は空いていた。早川奈美は昨夜よく眠れなかったせいか、助手席で目を閉じて休んでいた。
目を覚ますと、車はすでに東京都郊外に入っていた。
あの訳の分からない一千万円のことを思い出し、やはり気になって仕方がない早川は、少し躊躇してから口を開いた。
「あの…お金は、できるだけ早くお返しします」
ちょうど前方が赤信号になり、黒沢直樹はブレーキを踏み、横を向いて細めた目で彼女を見た。
不満に思われたかと早川が「もちろん、元本に利息もつけて」と付け加えると、
黒沢は軽く鼻で笑い、幾分かだらりとした口調で言った。「俺が、そんな小銭に困っているように見えるか?」
確かに、そうは見えない。
彼は黒沢直樹。黒沢泰三が後継者として目をかけている男だ。金に困るはずがない。
しかし、借りは返すものだ。
黒沢がなぜ手を貸したのか、早川には見当もつかず、彼女は沈黙した。
黒沢は口元をわずかに歪めると、底知れぬ闇をたたえた瞳で、低く澄んだ声で言った。「安心しろ。人に無理強いするのは好きじゃない。ましてや、それをネタに無理やり付き合わせたりはしないさ」
少し間を置き、夕陽に赤く染まる彼女の頬を一瞥しながら、かすかに誘うような口調で続けた。「ただし…早川さんが感謝の気持ちから、自ら俺を訪ねてくるならな…喜んで、また君と新しい体験をしてみたいものだ」
車がちょうど湿地公園の脇を通り過ぎた。水面に注ぐ夕陽の残照がきらきらと揺れている。
早川奈美はその光に目を細め、思わず眉をひそめた。
黒沢が普段からこうなのか、言葉の端々に想像を掻き立てるような含みを持たせるのか、彼女にはわからなかった。経験が浅い彼女は、立て続けのこうした挑発に、耳の根が火照るのを抑えられなかった。
深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせると、平静を装って言い返した。「黒沢さん、度が過ぎると身を滅ぼしますよ」
黒沢の喉の奥から、低い笑い声が漏れた。艶のある、少し嗄れた声だ。「ん、ご心配ありがとう、早川さん。だがな、誰にでもそうするわけじゃない」
車内に短い沈黙が流れた。黒沢は再びエンジンをかけ、話題を変えた。「ところで、金が用意できたら、いつ『独り身』に戻るつもりだ?」
早川奈美はその時、初めて合点がいった。
なるほど、彼が金を貸したのは、彼女に一日も早く高橋翔太と決別させたかったからか?
だが、なぜそんなことを?
黒沢が自分に気があるなどと、彼女は思い上がったりしない。恐らく、根っこは高橋翔太にあるのだろう。
高橋翔太が黒沢の見合い相手に手を出した。だから黒沢直樹は、その仕返しとして、高橋に振られる味を思い知らせようとしているのか?
その可能性を思うと、早川の胸の内は少し軽くなった。しかし、黒沢直樹の思惑は読めない。あの金が彼女の急場しのぎに流用されたと知ったら、怒り出すのではないか?
少し躊躇して、彼女は曖昧な答えを返した。「時が来れば、自然と別れます」
彼女は既に高橋翔太とは縁を切っていることには触れなかった。
黒沢直樹が突然、車を路肩に停めた。
センターコンソールの煙草箱を手に取り、一本取り出して唇に斜めにくわえた。
ライターを探そうとしたその時、早川奈美が微かに眉をひそめたのに気づき、手を止めた。ライターを元に戻すと、節くれだった指で煙草をつまみ、さっと窓を開けて、路傍のゴミ箱に正確に投げ捨てた。
「早川奈美」彼は体を向け直し、鋭い眼差しで彼女を捉えた。「お前、俺を舐めているのか?」
早川奈美は意味がわからなかった。その次の瞬間、手首を強く掴まれ、そのまま彼の目の前に引き寄せられた。
目と目が合う。黒沢直樹の深い瞳には感情が読み取れないが、声には確かな看破が込められていた。「俺と結婚すれば、黒沢家を調査するより…ずっと便利かもしれないぞ」
早川奈美の頭の中が真っ白になった。全身が一瞬で硬直する。
指の爪が無意識に手のひらに食い込み、鋭い痛みでようやく我に返った。目前の顔を見つめながら、唇をきっと結び、かすかに張りのある声で言った。「黒沢さん、何の話ですか? わかりませんが」
彼女の黒沢家調査は、極めて秘密裏に行っていた。黒沢はどうして気づいたのか?
早川は自問した。一年前、公園で急病を起こした黒沢泰三に“偶然”通りかかり手当てをして以来、その後黒沢邸に招待された際も、一切の隙は見せていないはずだ。
唯一の想定外は、それで高橋翔太と知り合い、まさか彼が自分にアプローチしてくるとは思わなかったこと。婚約を承諾したのも、高橋が養父・早川健一の会社を支援すると約束したからというだけでなく、高橋翔太という立場が、彼女をより深く黒沢家に近づけてくれるからでもあった。
だが、高橋の裏切りが、彼女にその場しのぎの付き合いを続けられなくさせたのだ。
黒沢直樹は口元をほんの少し緩め、見抜いたような笑みを浮かべると、彼女の頭の上を二度ほど軽く撫でた。その動作には、なぜか妙な親しみさえ感じられた。「構うな。確かに俺は黒沢ではあるが、お前が黒沢家に何を企んでいようと、俺の知ったことじゃない」
早川奈美は黙ったまま、彼の言葉の真偽を測ろうとした。
彼は所詮、黒沢家の人間だ。血は繋がっている。本当に無関心でいられるのか?
彼女の瞳に増した警戒心を察知すると、黒沢は呆れたように眉間を揉み、低く笑った。
「どうした? 信じられないのか?」
早川奈美は彼の目をまっすぐ見据え、問い返した。「私がなぜ黒沢家を調べているのか、気にならないんですか? それとも、私が黒沢家に危害を加えるかもしれないのが怖くないんですか?」
黒沢の瞳に一瞬、暗い光が走った。口調は平然としながらも、確かな距離を感じさせるものだった。「確かに俺は黒沢だ。だが、黒沢家がどうなろうと、俺には関係ない。ただし…」
突然、身を乗り出してきた。大きな体が、いとも簡単に彼女をシートの背もたれに閉じ込める。清冽な香りが一気に彼女を包み込み、整った顔が目前に迫った。低い声は、言いようのない誘惑を帯びている。
「俺は名実ともに黒沢家の人間だ。黒沢家を調査したいなら、高橋翔太みたいな使い走りを頼るより、俺と結婚するほうがずっと役に立つ。考えてみないか?」
彼の瞳にあるのは、意に介さないという気軽さ。本当に黒沢家への帰属意識はなく、彼女の目的も気にしていないようだった。
それは、彼がいつも黒沢家に逆らう行動様式とも合致する。ただ、度々口にする「結婚」という言葉には、早川奈美も驚かされた。
あまりに近い距離に、早川は気まずさで顔を背けようとしたが、手首はしっかり掴まれたままだった。
振りほどけないと悟り、彼女は抵抗を諦めた。ふと目線が、彼の手首の内側にある鮮明な「R」の刺青に落ちる…。
彼女は顔を上げ、黒沢直樹の深い瞳を見つめ、突如として唐突とも思える質問を投げかけた。
「黒沢さん、好きな人はいるんですか?」
あまりに突然の質問だった。
黒沢直樹はわずかに目を見開き、彼女を見つめる眼差しが瞬く間に深く計り知れないものへと変わった。口元に、じわりと興味深そうな笑みを浮かべ、低い声で言った。
「どうして突然そんなことを?」