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第21話 亀裂と古傷


早川奈美は首をかしげ、冷たい白い指を黒沢直樹の手首にかけた。視線は、彼の肌にくっきりと刻まれた「R」のタトゥーに向けられている。

「この『R』、大切な人のイニシャルでしょう? 黒沢さんがこんな風に私を弄んでいて、鈴木さんには…」


耳をつんざく着信音が、早川の言葉を遮った。


黒沢は眉をひそめ、明らかにタイミングの悪い電話を不快に思っている。切ろうとしたその手が、画面に点滅する「鈴木雅子」の名を見て止まった。通話ボタンを押す。


電話がカーオーディオに接続され、中年女性の泣き声が車内を立体的に包んだ。

「黒沢さん、私です! 鈴木先生が…先生が自殺を図られたんです!」


その言葉は、まさに青天の霹靂だった。早川は、黒沢の顔色が一瞬で曇り、周囲の空気が急に冷たくなるのを感じ取った。


「状態は?」 彼の声は張り詰めている。

「幸い、私が気づいて止めましたから、大事には至っていません。でも、鈴木先生のご様子がとても不安定で…私、どうすればいいのか…」

「しっかり見ていてくれ。すぐに向かう」 黒沢は即座に指示を出した。


早川は唇をきつく結んだ。前回、鈴木雅子が薬を受け取りに来た時、彼女は最近の抑うつ状態の検査データを確認していた。病状は安定して管理されていると示されていたはずなのに、まさかの急変だった。


車はすでに東京都心に入っていた。早川は長居すべきでないと判断し、自ら言った。

「黒沢さん、ここで降ります。お急ぎの用をお続けください」

黒沢はうなずき、路肩に車を寄せた。降りてトランクから彼女のスーツケースを取り出す。

渡す際、彼の手が一瞬止まり、低い声で言った。「着いたら、連絡をくれ」

早川の表情は冷ややかで、距離を置いたものだった。

「黒沢さん、私たちの関係が、行き先を逐一報告するほど親密だとは思えませんが?」

黒沢はわずかに目を見開いた。


早川はスーツケースを受け取ると、あからさまに線を引くような態度で、すぐにスマホを取り出し、手際よくタクシー料金を支払った。

「251円 入金されました」というシステム音声。黒沢は目を細め、彼女を深く一瞥すると、口元に意味ありげな薄笑いを浮かべた。

(この女、手のひらを返すのが早いな。)

それ以上何も言わず、彼は車を速やかに走らせた。


巨大なスーツケースを引きずりながら路肩に立つ早川の胸に、自嘲の念がわき上がった。

ほんの一瞬、黒沢が彼女を真剣に見つめたその眼差しが、まるで彼が告げようとしているかのような、ばかげた錯覚を彼女に抱かせてしまったのだ。


何を考えてるんだ、私。


彼には心に置いている人がいる。彼女に告げるはずがない。

早川は自分が場違いな妄想を抱いたことに呆れた。黒沢直樹のような、才貌兼備で社会でも揺るぎない地位にある男が、どんな女を手に入れられないというのか?

彼が時折見せる曖昧な態度は、昨夜の肉体関係の余韻か、あるいは気楽な関係を維持したいだけの気遣い…決して本心からではないだろう。

たぶん、あの深い眼差しが、誰を見ても優しげな幻想を抱かせるせいだ。それで一瞬、惑わされてしまったのだ。

早川はそっと首を振った。プレイボーイの特質が彼には備わっている。そんな男は、関わらないに限る。


夕方のラッシュアワーに休日が重なり、道路はひどい渋滞だった。

早川はタクシーもすぐには捕まらず、仕方なくバス停のベンチに腰を下ろし、スマホをいじって時間をつぶした。


退屈のあまり、彼女はスーツケースの写真を一枚撮り、添え文を付けてTwitterに投稿した。


「東京に戻ってきた。」


黒沢に黒沢家の調査を見抜かれた件が、早川の心にずっと引っかかっていた。不安を抱え、彼女はスマホを取り出し、ある番号にかけた。

「伊藤さん、黒沢家の件、ひとまずストップしてください。どうやら…気づかれたみたいです」

電話の向こうから、チェロの低音のように深く響く、落ち着いた魅力的な男声が返ってきた。

「本当に止めるのか? ようやく糸口が見えたところだ。ここで諦めるのは勿体ないとは思わないか?」

早川は唇を噛んだ。


「慎重を期した方がいいです。動かずにいましょう。それに…父が行方不明になってからもう十数年も経ちます。彼の足取りを突き止めるのは、そう簡単なことじゃありません」


伊藤梅子は軽くため息をついた。

「わかった。君もあまり気を病まないでくれ。お父さんは『運は天に任せ』だ。きっと無事だよ。僕は今、海外出張中だから、帰国したらまた話そう」

早川は相手がこの件でずいぶん尽力してくれていることを承知しており、礼儀正しく言った。

「お手数おかけします。お帰りになったら、ぜひ食事でもご馳走させてください」

電話を切り、遠くかすむ車の流れを見つめながら、早川の目尻がわずかに赤くなった。


その夜、彼女の眠りは浅く、錯綜した悪夢にうなされた。


夢の中で、彼女は十年前、実父・山本弘風の会社が倒産した瞬間に戻っていた。

借金取りがならず者を連れ、鬼のような形相で玄関を塞いでいる。山本家の三人は真っ暗な部屋の中に息を潜め、明かりすらつけられず、やり過ごせると思っていた。しかし、連中はなんと一週間も玄関先で張り込んでいたのだ。

一週間後、家の最後の食料も尽きた。山本弘風は憔悴した妻と娘の姿を見るに忍びず、カードに残ったわずか二十万円を妻・山本玲子に渡すと、借金を返す金を工面しに行くと言った。

しかし彼は、そのまま音信不通となった。


時は六月末。早川奈美が高校受験を終えたばかりの頃だった。あの朝、彼女が結果を見に出かけると、借金取りたちは子供だと見て、特に難癖はつけなかった。しかし、成績表を持って家に戻ると、母・山本玲子の姿も消えていたのだった。

山本玲子はあの二十万円を持ち、十五歳の娘を置き去りに、単身で国外へと去っていたのだ。彼女一人を、玄関外で虎視眈々と狙う連中に残して。


山本夫妻を見つけられない借金取りたちは逆上した。その夜、山本家に火の手が上がった。

早川奈美は煙と炎の中を慌てふためいて逃げ出した。身に着けていた薄い衣服以外、何も持たずに。

飢え、寒さ、無力感、迷い…全ての絶望的な感情が彼女を飲み込んだ。あの放浪の日々、飢えで気を失いそうになった時には、野良犬の口から食べ物を奪わなければならないことさえあった。

そんな非人道的な日々が半月以上続き、父の友人・早川健一の一家が彼女を見つけ、養女に迎えるまでだった。早川奈美は神奈川県から東京都に移り、早川家の養女となったのだ。


悪夢から目を覚ますと、すでに夜は明けていた。

早川はベッドに横たわったまま、胸を激しく波打たせ、悪夢の窒息感からようやく解放された。


憎んでいるか?


煙にむせび死にかけたあの時、心に湧いた憎しみは確かに本物だった。

彼女は実の両親が自分を捨てたことを、そして自分だけに全てを背負わせたことを憎んだ。

早川家に引き取られて一年後の誕生日、実母・山本玲子が海外から贈り物を送ってきたことがあった。

彼女は中身すら見ず、その小包もろとも、いわゆる「想い」をゴミ箱に叩き捨てた。


子供を捨てた親に、同情の余地なんてない。


そんな偽りの償いも、気遣いを装った贈り物も、彼女には必要なかった。

早川は理解していた。山本玲子が贈り物を送るのは、自分の罪悪感を軽くし、自分を楽にするためだけだと。


彼女は父も自分を捨てたと思っていた。


しかし後になって知った。山本弘風はあの時、本当に金を工面しに行ったのだ。


だがなぜか、借りた金を持って神奈川に戻る途中、突然行方不明になったのだ。


そして彼が最後に防犯カメラに捉えられた姿は、黒沢邸からそう遠くない路地の中だった。



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