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第9話 余温と噂

早川奈美の頬が一瞬で真っ赤に染まった。黒沢直樹は……あの薬を自分で塗ってやる、と言うのか?


「わ、わたし自分でやります!」彼女は思わず叫び、声には慌てがにじんでいた。


「その場所、ちゃんと自分で塗れるのか?」黒沢は落ち着いた様子で軟膏を手に取り、ゆっくりと包装をはがした。


奈美の顔のほてりはさらに強くなる。


普段はそうでもないのに、この男の前ではいつも言葉に詰まってしまう。


黒沢は彼女の動揺を見透かしたかのように、使い捨ての医療用手袋をはめ、深い瞳にふわりと遊び心を浮かべて言った。


「照れてるのか?」


彼は姿勢を正し、まるで症例を話し合っているかのような真面目な口調で続けた。「ただの塗り薬だ。医者の務めさ。余計なことはしないと約束する。それとも……」わざと間を置き、意味深な眼差しを向けて、「俺に対して、何か考えでもあるのか?」


奈美は驚いて顔を上げた

黒沢の笑みが深くなり、至って真面目に言い添えた。「何せ医者だからな、患者には責任を持つ。それに、この怪我……昨夜、俺がやりすぎたせいでもあるしな……」


奈美の頭がぼうっとした。ほぼ反射的に人差し指を伸ばし、黒沢の唇にぴたりと当てて、これ以上露骨な言葉を遮った!


彼女には理解できなかった。どうしてこの男は、これほど禁欲的で気高い顔をしながら、そんな放埓な言葉を平然と言えるのか?


たぶん……本当のプレイボーイなんだろう。奈美は心の中で彼に「海の王者」のレッテルを貼った。

ぼんやりしていると、黒沢が突然わずかに身を乗り出した。熱い息が彼女の敏感な指先にかかり、湿り気を帯びた誘惑のようにして言った。「早川奈美、自分で脱ぐか? それとも……俺が手伝おうか?」

どっかーん!


奈美は火に触れたかのようにソファから飛び起きた。耳の付け根まで真っ赤だ! 強烈な羞恥心で全身が硬直し、男の前であんな格好になるなんて、どうしても受け入れられなかった。


「お気遣いなく、黒沢先生! 自分で何とかします!」彼の焼けつくような視線を避け、素早く軟膏をカバンに押し込んだ。しかし、乱れた息は心の動揺を隠せない。


黒沢の喉から低い笑い声がもれた。彼女が逃げるような後ろ姿を面白そうに見つめながら、低く響く声がゆったりと追いかけた。


「次は……優しくするからな」

次?!


奈美の足が止まり、胸が高鳴った。思わず振り返ると、彼の底知れぬ深さの瞳が捉えた。昼間の看護師たちの噂話がたちまち耳に蘇る。


「黒沢先生の周りに女がいないわけがないでしょう……」

そうだ。彼のような男が、昨夜が初めてなはずがない。スタイル、ルックス、テクニック……どれも最高峰。きっと、もう何度も経験済みなんだろう。


奈美はそっと首を振り、胸に言いようのない渋みが込み上げた。自分と彼は月とスッポンほど違うと、深く思った。


その時、テーブルの上に置かれた携帯電話が不意に鳴った。

黒沢は奈美を一瞥し、携帯を取って奥の部屋へ向かう。

奈美の視線が無意識に光る画面を掠めた――着信表示にはっきりと「鈴木雅子」とあった!


彼女はその名前を覚えている。午前中、婦人科のあの鈴木医師だ。

黒沢が家の宴席で公に縁談を断ったあの決絶を思い出すと……奈美の胸に一筋の理解が走った。もしかして、彼の心に本当にいるのは、この鈴木医師なのか?


重い思いを抱えながらマンションを出た奈美は、まだ少しぼんやりしていた。

「奈美? ここで何してるんだ?」驚きを帯びた懐かしい声が後ろから聞こえた。


奈美が振り向くと、少し離れた場所で、スーツをきっちりと着た若い男性が歩み寄ってくる。ライトが墨色のショートヘアを浮かび上がらせ、温厚な雰囲気を漂わせている。


早川陽介、彼女の養兄だ。

黒沢に連れてこられたとは言えず、奈美は曖昧に答えた。


「患者さんを見に来たの。兄さん、どうしてここに?」


陽介は自然に近づき、彼女のこめかみの一房をそっと耳にかけながら、優しい眼差しを向けた。「友達に会いに来たんだ」彼は一つの書類を握っていた。


奈美は目ざとく、書類の上部に印字された文字――『金銭消費貸借契約書』を鋭く見つけた。胸がざわつく。「兄さん、あなた……」


陽介は素早く契約書を背後に隠し、何事もなかったように話題を変えた。


「今夜、高橋翔太と黒沢邸で食事したんだって? もう終わったのか?」彼は奈美の様子がおかしいことに気づき、「何かあったのか? お父さんが、別れたいって言ってるって?」


奈美は黙り込み、高橋翔太の下劣な行いを兄に話すべきか迷った。

着信音が沈黙を破った。画面には「高橋翔太」の名前が点滅している。

「奈美、家に着いた? 会いたいよ、そっちに行ってもいい? アパート? それとも家?」高橋翔太の声が受話器越しに聞こえ、吐き気を催すような馴れ馴れしさを帯びていた。「お義父さんに一千万送ったんだ。お父さん、喜んでたよ。残りはできるだけ早く……」


「ああ、そういえば」彼は話を変え、探りを入れるように言った。「叔父さん、ちょっと変な人なんだ。送ったけど、何か嫌なことされたりしなかったか?」


奈美はただただ呆れた。どうしてここまで厚かましいことができるのか? 彼女の態度は冷たかった。「高橋翔太、お金は早く返す。私たち、ここで終わりよ」


電話の向こうで二秒沈黙し、高橋翔太の声が突然高くなり、詰問する口調になった。「早川奈美! 別れたいなんて言うのは、誰か他の男ができたからか? 心変わりしたのか!?」


奈美は眉をひそめた。彼がここまで逆ギレするとは思わなかった。


彼女の沈黙を見て、高橋翔太はさらに激昂した。「マジで心変わりしたのか!? その男は誰だ?! 奈美! お前、誰を好きになったんだ?! 教えろ!」


奈美は電話を切った。


車内は狭く、通話の内容は運転中の早川陽介にほぼ聞こえていた。彼は心配そうに妹を見た。「奈美……本当に好きな人ができたのか?」


奈美は疲れたように首を振った。「兄さん、知ってるでしょ、恋愛には興味ないって」

陽介は明らかにほっとした様子で、優しく慈しむ眼差しを向けた。「縁談を解消したいなら、兄さんは賛成だ。お父さんのところは、俺が話す」少し間を置いて付け加えた。「その三千万、二人で何とかしよう」

奈美の視線は、陽介がダッシュボードに置いた『金銭消費貸借契約書』に落ちた。彼女はそれを手に取り、開いた。


「兄さん!」陽介は止めようとしたが、ハンドルを握っているため一歩遅れた。

「年利20%……」奈美はまだ押印されていない署名欄を見つめ、指先が冷たくなった。「これ、サラ金と変わらないじゃない! サインしたら、借金地獄に陥るだけだよ!」

陽介は苦笑した。「金利は高いよ。だから……まだ考えているところなんだ」

会社が本当に行き詰っていなければ、こんな契約書には手を出さなかった。


高橋翔太がアパートで待ち伏せするかもしれないと心配し、奈美はその夜、陽介と一緒に早川家に戻った。

シャワーを浴びた後、親友の小林優衣から電話がかかってきた。奈美はその夜あったことを大まかに話した。

「まじか! 高橋翔太がそんなに図々しい奴だとは思わなかった!」


電話の向こうで優衣は飛び上がるほど怒っていた。「自分の下半身を制御できなくて、しかも『お前のために金を工面してる』だなんて? 藤原麻衣にベッドに縛り付けられて『売春』させられた、とは言わないのかよ!?」


奈美は鏡の前でパックをしながら、皮肉な口調で言った。「自分の気を楽にするために、それっぽい言い訳を作って自分を騙してるだけよ」

「これ、立派なPUAだわ!」優衣は憤慨した。「恋愛脳じゃなくてよかった!」


奈美の手がわずかに止まり、声が低くなった。「恋愛脳? 十年前、私も両親は仲良くて、幸せな家庭だと思ってた。でも、父が倒産して行方不明になったら、母はすぐに最後の二十万をかき集めて私を置いて海外に出て行った……」


口元をゆがめて、苦々しい笑みを見せた。「野良犬から食料を奪ったあの日から、私は知ってた。この人生、儚い恋愛に希望を託したりしないって。早川家に養子にされなかったら……」


優衣は胸が痛み、慌てて話題をそらした。「そういえば! 昨夜の『一夜の相手』、いったい誰なのかまだ教えてくれないじゃない!」


「……黒沢直樹」


「誰?!」


電話の向こうで優衣が息を呑む音と、携帯が落ちるガチャンという音がした。しばらくして、彼女は慌てて携帯を拾い上げ、声が震えていた。「外科の黒沢直樹ってこと?!?」


「ええ」奈美の目に、気高くも危険なあの顔が浮かんだ。


「彼は高橋翔太の叔父でもあるの」


電話の向こうは死んだように沈黙した。


病院内のゴシップ通として、優衣は午後、新しく来たイケメン医師の経歴をほぼ調べ尽くしていた。独身、未婚、十年間海外。そして今回の突然の帰国……噂では、ある女性のためだという。

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