長倉は眠れない夜を過ごしていた。
何故か。それは座った姿勢のまま、手足を椅子に縛り付けられているからだ。
そして、二方向から投光器の光線を顔面に浴びせられているからだ。
その上、ガムテープで頭に固定されたヘッドフォンからは最大音量でデスメタルが鳴り響いているからだ。
縛られた手足の感覚は、痺れから痛みに変わり、やがて無になった。顔を殴りつけるような光は網膜をショートさせ、もはや目を開けていても閉じていても何も変わらない。絶え間ないバスドラムと歪んだギターと喉から絞り出す唸り声が鼓膜に爪を立てるのを、音楽として認識できる余裕はとっくに失われていた。
意味をなさない光と音の刺激がただひたすら睡眠を阻害する。やがて脳は現実世界の輪郭を捉えられなくなり、夢や空想とリアルの区別が失われる。
光を受けすぎて使い物にならなくなったはずの網膜に、あの日のクラブの光景が映し出される。
横野を罠に嵌めた日のことだ。
襲撃自体は、不気味に思えるくらい上手くいった。共犯の男たちは《LPグループ》と一切接点のないところからリクルートしてきた寄せ集めだったが、期待通りの仕事をした。クラブホールでの陽動から横野の確保まで、文句の付け所がなかった。
共犯者たちには、横野が管理しているグループの財産については教えていない。これは私怨による襲撃だと説明して、もっともらしい因縁話を吹き込んだ。それをそのまま信じたかどうかはともかく、報酬は相当弾んだので、彼らは全員納得して計画に参加した。弾んだといっても、これから手に入るはずの金に比べたら賽銭みたいなものだったが。
予定通りに横野を捕らえ、他人の名義で借りてあるガレージまで連行したところで、長倉は雇った男たちに報酬を支払って帰らせた。それから車を替え、また別のガレージで車を替え、それから自身の隠れ家に向かった。
横野はなかなか口を割らなかった。話を逸らしたり、取引を持ちかけたり、逆に脅しをかけてきたり、共通の思い出に触れることで同情を誘おうとしたりと、少しでも助かる確率を上げようと必死だった。
確かに長倉は横野と一緒に仕事したこともあるし、遊んだこともある。だがそれくらいで情に絆されるような人間は、この世界でここまで出世していない。なので長倉は遠慮なく拷問の強度を上げた。
結局、この社会は弱肉強食。喰うか喰われるかだ。
最終的に、致死量すれすれまでコカインを鼻にぶち込んだところで横野は折れた。鼻血を垂れ流し、薄赤色の泡を吹きながら、金庫の在処を吐いた。それから、解錠するには横野自身の指紋認証が必要だと言った。
長倉は横野があの世まで飛べるようにコカインを追加してやってから、サバイバルナイフと糸ノコギリでその腕を切り落とし、金庫のもとに向かった。
場所はあるマンションの一室だった。鍵のかかる洋室の床には鉄板が敷かれ、目当ての金庫はそこに溶接で固定されていた。横野の指紋を使って解錠すると、中に隠された現金を全て取り出し、自分自身の隠し金庫に移した。
これで計画は成功となるはずだった。
隠れ家に戻るまでは、そう思っていた。
ドアを開けた時点では、浮かれた心を抑えきれず、周囲への注意が不十分になっていた。廊下の半ばまで歩を進めたあたりで、あってはならない他者の気配に気づいた時点ではもう遅く、次の瞬間には長倉は押さえ込まれ、口と鼻は睡眠薬を染み込ませた布で覆われた。
意識を取り戻した時には、椅子に手足を括り付けられ、数人の男に囲まれていた。
長倉は正面に立つ男を観察した。背が高く、鱗のような刺繍が入ったジャージを着ていた。両手首から手の甲にかけて彫られたタトゥーの蛇と、よく似た顔をしていた。
そいつには見覚えがあった。たしか染川という名前で、武政陸斗の腹心として仕えていた奴だ。
「驚いたか?」
染川は一言目にそう言った。
「な、なんすか」長倉は声を絞り出した。「何でここにいるんすか」
細長い目をぎらりと光らせて、染川は笑った。
「お前な。俺たちが部下に好き勝手させると思うか? 持ってる車とか、隠れ家とか、全部把握してるんだよ。今回の襲撃を聞いて、俺は真っ先にお前が怪しいと思った。それでお前の隠れ家に行ったら、腕のない横野の死体が放ってあった。そういうことだ」
それから染川は腰をかがめ、鼻がぶつかるくらいの距離まで顔を近づけた。
「じゃあ、これが一体どういうことなのか、一応お前の口からも説明を聞こうか」
長倉は睡眠薬と混乱と恐怖で調子の上がらない脳みそをフル回転させて、言い訳を考えた。
「横野なんです。あいつが、グループの金を奪って逃げる計画を立てていたんで、痛めつけて全部吐かせて、処刑したんです」
「なんで俺に相談しなかった?」
「少しでも勘づかれたら逃げられると思いまして。……事後報告になったことは、申し訳ないです」
「そうか」染川は笑っていた。「それでお前、横野の腕持ってどこに行ってたんだ?」
「その、金庫に行ってました。こいつの指紋で解錠するっていう。金が持ち出されてないか、確認しようと思いまして」
「金はあったのか?」
「いえ……それが、すでに別のところに移されてたみたいで」
「どこだ?」
「それは……横野じゃないとわからないです」
染川は黙って微笑みを浮かべたまま長倉の話を聞いていた。それからおもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。
「お前の話だと、何で横野を捕まえるのに自分自身のクラブを荒らす必要があるかわからないな」画面を操作しながら染川は言った。「それに――実は、実行犯の一人を捕まえたんだ。そいつが言うには、お前自身も一緒に誘拐されるように見せかける必要があるって、お前言ったらしいな。何でだ?」
長倉は枯れた喉から声を絞った。「そいつ、そんなデタラメを……」
「証拠を見るか?」
そう言うと染川はスマートフォンで動画を再生した。
それを見た長倉は吐きそうになった。自分が雇った男の一人が、全裸で椅子に縛り付けられていた。全身の皮膚に地図のような模様が描かれていて、それが熱傷によるものだと気づくのに数秒かかった。やがて男は陰部をトーチバーナーで炙られ、猿のような金切り声を上げた。
「長倉、俺の目を見ろ」
染川は笑っていなかった。
「もう一度初めから、この状況を説明してみろ」
それから何日経っただろうか。もう日付の感覚も失われつつあった。
定期的に最低限の食事と水分が与えられ、そのときだけ手足の拘束は解かれるが、それ以外の時間はずっと椅子に括り付けられていた。昼夜問わず――というか、時間の感覚すらなくなっているが――何度も何度も繰り返し経緯の説明を求められ、それを話している時以外は投光器の光とヘッドフォンからの爆音が感覚を占領した。徹底的に睡眠を奪い、思考力を低下させる作戦だ。
長倉は開き直り、どれだけ細部を突っ込まれようとも同じ嘘をつき続けた。金を移した場所は、絶対に言わないと決めていた。恐らく連中は、金の在処について口を割らないまま自分が死ぬことを良しとしないだろう。逆に、こっちがそれを話した時が、死ぬ時だ。
この状況で生き残るには、粘るしかない。
突然ヘッドフォンが剥ぎ取られ、投光器の電源が落とされる。
刺激がなくなっても、網膜の残像と耳鳴りはすぐには消えない。感覚機能が戻ってくるのを待っている間だけでも、何度も意識を失いそうになる。
網膜に焼き付いた残像が薄まっていく。そしてそれと入れ替わりに、人影が浮かび上がり像を結ぶ。
長倉の目の前に、染川が仁王立ちしている。右手にカッターナイフを握りしめている。
「いい加減、終わりにしないか?」染川は溜息混じりに言う。「金だけ返してくれたらいい。そうしたら見逃してやる。この街からは出て行ってもらうけどな」
嘘だ、と長倉は判断する。
「だから、それは横野が……」
「わかってんだよ、こっちも。お前が、横野が管理してた金を奪うために一芝居打ったってことくらい。今更何を言っても無駄だ」
「待って下さい」
「俺たちはもう十分待ったと思うぞ」
染川はカッターナイフのロックを解除して刃を伸ばす。
「本当に、待って下さい!」
「お前が本当のことを言わないのは、俺たちがお前に優しくしすぎてたからだと思う」
染川の隣に立っていた部下の男が長倉の背後に回り込むと、顎に腕を回して締め上げ、頭部を固定する。
椅子をガタガタと鳴らし、呻き声を上げながら抵抗する長倉の右目に、染川は指を入れる。それから目蓋を引っ張り上げると、カッターナイフで切り落とす。
固定された顎の間から、長倉の悲鳴が漏れる。
「何でそんなことするかっていうとな」染川は切り取った目蓋を床に捨てる。「俺がこれからお前にすることを、一瞬も見逃さないで欲しいからだ。文字通り、瞬き一つせずに、な」
長倉の右目は血と涙に溢れ、何も見えなかった。
そういうことか、と長倉は思う。俺が横野にやったようなことを、こいつらは俺にやるんだ。弱肉強食ってやつだ。
でも、おかしくないか? 俺は横野の目蓋を切り取ってはいない。
痛みや恐怖は、やがて怒りと区別がつかなくなる。生き残るために嘘をついていることに我慢ならなくなり、キレそうになる。
目蓋を切りやがった染川にキレそうになる。染川のふざけた言葉遊び――何が「文字通り、瞬き一つせずに」だ――にキレそうになる。
口を割らずに手こずらせやがった横野にキレそうになる。ドジを踏んで捕まった自分自身にキレそうになる。
弱肉強食という言葉を考えた奴にキレそうになる。
「痛えよ」長倉は低い声を出す。
「は?」染川は笑う。
「痛えって言ってんだよ!!」
長倉は喉がちぎれそうになるほどに叫ぶ。
「お前が本当のことを言わないからだろ」
染川は静かに言う。それからカッターナイフをポケットに入れ、代わりに取り出した煙草に火をつけて咥える。
「じゃあ言ってやるよ」長倉は染川を睨む。右目から血が滴り続けているのにも構わない。
「そうだよ、俺が横野から金を奪ったよ。将来のないこんなグループに嫌気がさしたからな!」
染川の顔から表情が消える。
「社長は凄かった。瞳さんも、凄かった。でもお前らみたいな金魚のフンはどうだ? 社長がいなけりゃ、何にもできねえじゃねえか! だから決めたんだ、こんな泥舟、真っ先に飛び出してやるってな!」
「そういうのはいいから」染川は長倉を見下ろす。「隠した金の場所を教えろよ」
「燃やした」そういって長倉は笑顔を作る。そうすると、なぜだか自分が滅茶苦茶面白いことを言ったような気がしてきて、本当に笑いが止まらなくなる。
「お前、わかってないな」
染川は咥えていたタバコの先端を長倉の右目に突っ込み、火をもみ消す。
長倉は感じた痛みの全てを口から放出するように、大声で叫ぶ。
叫んでいると、アドレナリンだかエンドルフィンだか何だかが湧いてくるような気がして、痛みよりも興奮が上回る。
「意味ねえよそんなの! いくらそんなことしたって、お前は陸斗さんになれねえって! お前がやってるそれは、暴力の真似事だ。偽物の恐怖だ。陸斗さんのはな、本物なんだよ!」
訳がわからないまま叫んでいると、自然と武政陸斗の話になる。
長倉は他人や集団への忠誠心はないが、あの兄妹だけは別だった。
“奇蹟”を目撃したからだ。
あれはたしか、詐欺のアジトに
武政瞳が連中に囁きかけると、全員が恍惚とした表情になり、催眠術にでもかかったようにどんな言うことも聞くようになった。金の在処やバックの組織について洗いざらい吐かせてから、直立したまま動かなくなった少年たちの腕を、武政陸斗が一本ずつ引きちぎっていった。
そいつらの表情は決して忘れない。
笑顔だった。仏像のような微笑みを湛えたまま、涙を流していた。
そして悟った。これこそが真の暴力で、恐怖だ。なにも信用できない世界の中で、それだけがひたすらリアルに、存在感を放っていた。
それ以降、長倉は武政に忠誠を誓い働き続けた。だが、あくまであの兄妹のために働いていたのであり、グループのためという意識は持ち合わせなかった。
陸斗と瞳が消えた今、残された会社には何の興味も未練もなかった。
最初から《LPグループ》は、武政兄妹の“奇蹟”によって一つになり、成立していた。それがなくなった時点で、終了だった。だから去ろうとした――失敗したが。
「そんな寝言をほざいてる場合か?」染川は言う。「長倉、お楽しみはまだまだ続くぞ。お前が言うべきことを言うまでな」
「誰が言うか」長倉は吐き捨てるように言う。「お前らは金も力も失って、喰われて終わるんだよ」
染川はそれを無視して、部屋の外で見張りをしている部下に声をかける。
「おい、場所を変えるぞ。戻ってこい」
長倉には、どこに移動するか想像はついていた。うちのグループで所有している解体ヤードだろう。武政兄妹が拷問や処刑、そして後片付けに使っていた場所だ。“奇蹟”を目撃したのもそこだった。何だか、そこで死ねるのなら本望なような気さえしてきた。
それから少し時間が経った。外で待機している連中は戻ってこない。
「おい、聞こえてんのか?」
返事の代わりに、鈍い衝撃音が響く。
ちょうど、人間が地面に激突したときのような音だった。
染川と、部下の男が、顔を見合わせる。
「ちょっと、様子見てこい」
指示された男が駆け足で部屋のドアに向かう。
ドアを開けると、そこに見知らぬ男が立っていた。スーツを身にまとい、雄鶏の覆面を被って顔を隠している。
「誰だ、お前……」
部下の男は言い終わる前に大きく首を後ろに反らせる。関節がちぎれる湿った音が響く。
後頭部が背中に付くまで首を曲げると、そのまま後ろに倒れて動かなくなる。
スーツ姿の男は、手をポケットに突っ込んだままの姿勢で立っている。
長倉も、染川も、何が起こったのかわからなかった。
染川がカッターナイフを再び取り出す。わからないなりにも、ニワトリ男を“敵”だと認識したようだ。
ニワトリ男に対峙した染川は、宙に浮かび上がる。
長倉は、目の前の光景の現実性を疑う。俺は寝不足のせいで幻覚を見てるのか。
常識的に考えて、染川が空を飛べるはずがない。
もう一度長倉は染川を見る。浮かんだまま、ぎこちなく体をくねらせて
違う。こいつは空を飛んでるんじゃない。空中に吊るされてるんだ。
長倉は悟る。
これは、ニワトリ男の“奇蹟”だ。種類は違うが、陸斗さんや瞳さんが使ったのと同じ、常識を超えた力なんだ。
染川は空中で体を反らされ、背骨を折られた後、仰向けに床に落とされる。
その目には何も映していない。床に激突する前に絶命したのだろう。
そして部屋にいる生きた人間は、ニワトリ男と長倉だけになった。
「あんた、今のは……?」
長倉はニワトリ男に問う。
ニワトリ男は答えない。長倉の方を見ているのかどうかさえわからない。
「君が隠した金、どこにある?」
そう尋ねられた長倉は、どういうわけか、感極まって泣きそうになる。“奇蹟”の使い手が、俺に質問をしてくれた。俺を頼ってくれた。
本当のことをニワトリ男に話さないという選択肢はなかった。金庫の場所、部屋の入り方、解錠の仕方、全てを話す。
実際のところ、長倉は〈催眠〉の影響下にあっただけだが、本人がそれに気づけるはずもない。
「俺はどうなる?」長倉は訊く。
「死ぬよ」ニワトリ男は答える。
「そうか」長倉は泣きながら笑う。「あいつらに殺されるよりマシだ」
ニワトリ男は指一本動かさずに長倉の首を真後ろまで捻る。
椅子に括られた男の呼吸が止まったのを確認してから、雄鶏の覆面を被った男は後片付けに取り掛かる。
連中が拷問場所に選んだのは、グループの所有する倉庫の一室だった。
覆面の男は〈念動力〉で部屋の床板を引き剥がし、露出させた地面を掻き分け、深い亀裂を作る。そこに男たちの死体を落とし、拷問に関係する道具も全て放り込む。亀裂を閉じて埋めてから、床板を戻す。
もう一度周囲を見回し、不審な点が残っていないか確認してから、建物を後にする。
男が道に出ると、正面に人影が見える。フード付きのシェルジャケットを着た女性の影だった。
時刻はもう日付を超えていて、周りには誰もいないし、車の音もない。
二車線の道路の真ん中で、二人は正対する。
「伊関杏子といいます」女性は言う。「知人の車を壊した人間を探しているのですが」
「いきなり何です?」男は首を傾げる。
「何のことか、わかるはずです」
伊関と名乗った女性が微かに“気配”を発する。
それは凪いだ水面に波紋が一つ広がるような“気配”だった。だがその波紋は、次の瞬間には渦潮にも津波にも変化する可能性を秘めているように感じられた。
男は彼女が自分の“同類”であることに気づく。同時に、全てがつながってくる。
「そういうことか」男は微笑んでみせる。
「わかりましたか?」伊関は表情を変えない。
「俺は君を見たことがあるよ。警視庁で。石井さんに会いに来てただろ?」
伊関は黙って男を見つめる。
男は雄鶏のマスクを剥ぎ、自己紹介をする。
「俺は山名雄介。警察官だ」