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 2019年5月25日



 亜由美は目を覚ました後も、少しの間ベッドの上で体を丸めて眠りの余韻に浸る。

 サラを守るために大男を殺した夜から連日のように現れた悪夢は、影を潜めるようになっていた。

 文化祭の日にサラと会ってからだろうか。その日以降、悪夢に苛まれることが減った気がする。崩れかけていた精神のバランスが、再び調和を取り戻しつつあるような、そんな感じがする。

 私はサラを助けた。でもそれだけじゃない。私もきっと、サラに救われてるんだ。


 起床してコーヒーを飲みながら、昨日のサラとのやりとりを頭の中で再生する。得意げに“力”を披露するサラ。私の悪戯に引っかかってすっ転んだサラ――思い返すだけで、ちょっと笑えてくる。

 私が出した答え。それは何かしらの結論というよりは、結論を先延ばしにしただけだった。あれで良かったのか、正直わからない。でも、あれが自分の限界だったと思う。

 サラは私に、過去を語ってくれた。私も、打ち明けられる日が来るだろうか。

 そのことを考えると、亜由美は胸の奥に棘が引っかかるような痛みを感じる。私の過去は、サラのそれとは違う。私が過ちを犯した過去だ。それを話したら、サラは私に幻滅するかもしれない。私を嫌いになるかもしれない。

 亜由美は両手で自分の頬を叩く。頭を振って、深い底に沈んでいきそうな思考を振り払う。先のことを気にしても仕方ない。嫌われたら、その時はその時だ。そう思うしかない。


 コーヒーを飲み干すと、亜由美は立ち上がり、洗濯と掃除に取り掛かる。家事が一段落する頃には、バイトに行く時間になっている。

 身支度をしながら、サラが今日店に来たがっていたことを思い出す。来るとしたら、何時頃だろうか。今日は閉店までシフトに入っているので、バイト上がりに二人で過ごすのは難しいけど。

 また超能力を教えてとサラに頼まれるだろうか、と思う。そして亜由美自身、不安を感じると同時に、それを心のどこかで待ち望んでもいる。

 もともと教えるのが好きなタイプではないけど、サラの先生をやるのは楽しい。あの子は感受性も理解力も高く、驚いたり面白がったりしながらどんどん知識や技術を吸収していく。それにセンスも良い。きっと想像力が豊かで、なおかつイメージした動きと実際の動きを合わせる能力に秀でているのだろう。


 次は何をしようかな。昨日やった〈催眠〉の他にも、教えられることは山のようにある。どれから手をつけようか。

 そうだ――〈境界空間リミナル・スペース〉について、一度ちゃんとサラに説明しておく必要がある。

 〈オルタナティブ・レイヤー〉と、私たちが生きる時空。本来接することのない二つの時空が接した空間が、〈境界空間リミナル・スペース〉と呼ばれるものだ。出現する条件は、一つを除いて不明。その一つとは、超能力の暴走だ。

 超能力者は〈オルタナティブ・レイヤー〉から、空間上には見えない“伝送路”を通して“力”を得ている。だが“力”の制御が不可能になると、“伝送路”は急激に拡大し、〈境界空間リミナル・スペース〉に成長する。

 〈境界空間リミナル・スペース〉内で活動し、それを制御できるのは、スキルのある超能力者だけだ。“力”を持たない人間は、その内部では構造を保つことができない。“力”のコントロールを失った超能力者も同じだ。

 〈境界空間リミナル・スペース〉が閉じられる――すなわち二つの時空レイヤーが分離される時、〈オルタナティブ・レイヤー〉側に取り残されると、こちらの世界からは完全に消滅したことになる。閉じた〈境界空間リミナル・スペース〉から脱出することは、たとえ超能力者でも、不可能とされている。


 普通に考えれば、サラが〈境界空間リミナル・スペース〉に関わる機会はまずないはずだ。あれはそう頻繁に出現するものではない。それに彼女自身、暴走して〈境界空間リミナル・スペース〉を生み出すほどの“出力”を持っていない。

 それでも、万が一それに遭遇した場合、対応を誤ると悲惨な死を迎える。だから、〈境界空間リミナル・スペース〉については知識として持っておいてもらう必要がある。

 次のレッスンのテーマが決まる。亜由美は家を出てバイト先に向かいながら、脳内でレッスンの内容をシミュレーションする。




 ディナータイムに差し掛かるくらいの時間帯に、〈Footprints〉に一人の男性が訪れる。

「ちょっといいか?」店長の康平が、厨房にいる亜由美に声をかける。

「何ですか?」

「警察の人が来ててな」

「警察、ですか?」緊張が背筋を伝うのを悟られないように努めながら、亜由美は返答する。「何かあったんですか?」

「ほら……先月末に、変な奴が来ただろ。女の人に眠剤盛ろうとした奴」

「あー、来ましたね」余計なことを言ってしまわないように、最小限の返答にする。

「事件の日に勤務してたスタッフ一人一人に、もう一度話を聞きたいんだと」

「そうですか……わかりました」

 腑に落ちない部分は多い。今仲涼太――店に来た不審人物――が病院に運ばれたのが先月末で、死んだのは今月上旬だ。なぜこのタイミングで聞き取り調査をしているのか? 通報した時以来、一度も店に連絡がなかったのに?

 不信感は拭えないが、警察の事情聴取を断るのもまずい気がする。

 少し躊躇したが、亜由美はその警察官と話すことにする。


 ちょうど客足の途絶えたタイミングだった。空いている一番奥のテーブル席で、亜由美はスーツ姿の警察官と向かい合って座る。

「時間をとって下さって、ありがとうございます」警察官は微笑み、警察手帳を出す。「警視庁捜査第一課の山名雄介です」

 亜由美も自己紹介をする。

 山名と名乗った男はすぐに本題に入る。

「先月、4月の27日と28日、バイトが終わってから何をしていましたか?」

 亜由美は説明する。27日はバイトを上がってから真っ直ぐ家に帰り、28日は外食してから家に帰った、と。別に嘘はついていない。今仲を退治したことも、そのときサラが一緒にいたことも、訊かれていないから答えていないだけだ。

 詳細を突っ込まれるかと亜由美は予想していたが、山名はそうしなかった。


「実はですね、通報があった翌日に、この店の近辺で暴行事件があったんです。ちょうど神前さんのシフトが終わったくらいの時間でしょうか。そして、そのうちの一人――27日にこの店で女性に危害を加えようとした男ですけど――そいつが暴行の被害に遭い、搬送された病院で死亡したんです。それで、改めてその男と接触した可能性のある人間をあたっていまして」

 山名が嘘をついていることに亜由美は気づく。今仲が死んだのは、搬送先の救急病院から転院した先の精神科病棟だ。

 だが、なぜ嘘をついた? こっちを動揺させ、ミスを誘うつもりか? よくわからない。

 疑念や不信の一切を心の中に抑え込み、亜由美は山名の胸元あたりに視線を向ける。

「そうなんですか」

 亜由美はなるべく違和感のないように相槌をうつ。こちらからは極力情報を与えないと心に決める。具体的に尋ねられたことだけに、簡潔に答えることにする。


 山名が、小さく溜息をつく。

 そして、ぎりぎり聞き取れるかどうかといった声で、独り言を呟く。

「やっぱ、時間がもったいないな」 

 亜由美は耳を疑う。人の時間を奪っておいて、何を言ってるんだ。

 向かいに座っている山名と目が合う。

 その瞬間、亜由美は“気配”を察知する。

 それは目の前の男から発せられていた。こちらをコントロールしようとする〈催眠〉の“気配”だった。

 亜由美が反射的に“かけ返そう”とした瞬間には、その“気配”は消えていた。


 もう一度山名の目を見る。その奥は照明のない地下室のように暗く、何が隠れているかわからない。

「あんたか」

 山名は呟き、薄い微笑みを浮かべる。

 亜由美は、自分がミスを犯したことを悟る。

 しまった。しくじった。

 私が超能力者だということを、あいつに知られた。

「貴重なお時間を頂きました。ご協力ありがとうございました」

 山名はにこやかにそう言うと席を立ち、店を去っていく。




「おーい」

 康平に声をかけられ、亜由美は我に返る。一瞬、思考がフリーズしていた。

「意外とあっさり帰っていったな、警察の人」康平は店の出入り口の方を向いて言う。

 亜由美は記憶を辿って状況を整理する。

 あの山名と名乗る刑事は、超能力者だ。

 そして私に対していきなり“力”を使ってきた。

 咄嗟にそれを返そうとしたことで、私も“力”を使うことがバレた。

 私の失点だ。

「亜由美、大丈夫か?」

 康平の声で、亜由美は再び我に返る。

「はい、大丈夫です」

 亜由美は立ち上がり、仕事に戻る。


 店の業務は普段通りにこなせる。体で覚えているからだ。

 ただ頭の中ではひたすらに先刻のやり取りが繰り返し再生されていた。

 あの男、どうして私のところに来たんだろうか。ここで会う前から、私が超能力者だと当たりをつけていたのだろうか。だとしたら、何を根拠に? どの時点から、私を疑っていた?


 男の台詞を思い出す。

 “あんたか”――あいつはそう言った。私が超能力を使って何をしたかを知っているような口ぶりだった。

 私がやったことを、どこまで知っている? 

 今仲と連れを昏倒させたこと?

 大男をこの世界から消滅させたこと?

 わからない。あの刑事を名乗る男は、私の“力”を確認するとすぐに帰っていった。これから奴がどうするつもりなのかもわからない。

 胸の中に渦巻く不安と焦りを少しでも排出したくて、亜由美は周りに気づかれないように溜息をつく。

 ああ。まずいな。

 私はどうすれば良かったんだろう。




 〈Footprints〉を出ると、山名は歩きながらハンズフリーヘッドセットを耳に装着し、電話をかける。

「はい、伊関です」イヤホンから声が聞こえる。

「山名だ。俺たちが探していた超能力者を突き止めた」

「本当ですか」伊関の声が鋭くなる。

「ああ、昨日話した店のスタッフが、超能力者だ」

「確証はあるんですか」

「ある。そいつは俺の〈催眠〉を跳ね返した」

「……いきなり“力”を使ったんですか?」

「悪いか?」

 イヤホン越しに伊関のため息が聞こえる。

「杏子さん、これが一番手っ取り早いんだよ。逆にさ、普通に尋問して口を割ると思うか?」

「相手が超能力者じゃなかったら?」

「“あ、違うんだ、じゃあね”で終わりだろ。どうせ向こうは気づかないんだから」

「……まさか、店の人全員に〈催眠〉をかけたんですか?」

「いやいや」山名は愉快に笑う。「そのつもりだったんだけどさ、一発目でビンゴだったんだよ」

「山名さん」伊関が厳しい口調で言う。「いつか窮地に立たされますよ」

「普通の人間なんか、怖くないだろ」

「それだけじゃない。あなたが見つけた超能力者、きっと怒ってますよ。襲われたらどうするんですか」

「杏子さんに助けてもらおうかな」山名はそう言って笑う。

 再び、伊関のため息が聞こえる。

「まあ……その人が本当に私たちが追っていた人物なら、突き止めたのは山名さんの手柄ですね」

「だろ?」

 山名はふざけて得意げな感じを出す。

 伊関はなんだかんだ言っても、俺が目的を達成したことは評価するらしい。

 現実主義者だという点において、山名は伊関のことが気に入っていた。

「それで、その超能力者はどんな人なんですか?」伊関が訊く。

 山名は答える。

「大学生くらいの女だった。名前は、神前亜由美。そいつが超能力者だ」


 その時だった。

 自分の正面から、鼓動のような“気配”が一瞬、漏れ伝わったのは。






 サラは咄嗟に“力”を制御し、“気配”を殺す。

 それから、目の前に立つ男を観察する。

 アユミの名前を知っている――それだけじゃなく、彼女が超能力者であることも知っている、その男を。

 男からも“気配”を感じる。自分と同類だ。

 そして男は、自分が一瞬漏らしてしまった“気配”を察知したようだった。

 サラは自身の失敗を呪う。つい、アユミの名前が出たことに動揺して“力”が入ってしまった。慌てて“気配”を消したが、遅かったようだ。


「お嬢さん」男はサラに微笑みかける。「今の、聞こえてました?」

 サラは男から目を離さず、一歩遠ざかる。

「警察の者なんですけど」男はマークのついた手帳を取り出して言う。「あなた、神前亜由美って名前に反応しましたよね? 知り合いですか?」

 サラは答えずに、男の出方を窺う。

 男は口元に笑みを浮かべたままサラを見つめていたが、やがて小さく溜息をつき、首を横に振る。


 次の瞬間、サラは首筋から頭に這い上がる“気配”を感じる。

 それが男の発動した〈催眠〉であることは、すぐにわかった。一度アユミにかけられたときの感触を覚えていたからだ。“解除”するやり方も、忘れてない。

 〈催眠〉が頭の中に届く前に、サラはそれを振り払う。同時に、踵を返して駆け出す。

「おい、待てよ」

 男が声を上げる。

 サラは振り返らずに走る。誰が待つか。


 その時、まるで見えないハーネスを引っ張られたような強い力が背中にかかり、身体のバランスを崩しそうになる。

 肩越しに男を見る。男はサラを追って走りながら、右手を伸ばしている。

 ――こいつ、〈念動力〉も使えるのか。

 サラもすぐに自身の〈念動力〉を発動させ、男の“力”を打ち消すように、自分の身体に使用する。

 背中が引きちぎられるように痛み、歯を食いしばる。だがその痛みは一瞬で消え、すぐにハーネスが切れたように身体が軽くなる。

 男の〈念動力〉の影響から逃れたのを感じる。


 サラは周囲を一瞥して、自分とその男以外いないのを確認してから、“力”を使って宙に躍り出る。

 ビルを二つ飛び越え、狭い路地裏に着地してから、大通りに走り出る。

 そして、群衆の中に身を隠しながら、足早に地下鉄の駅に向かう。







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