電車がホームから離れると同時に、サラはその場にへなへなとしゃがみ込む。
危なかった。本当に、ギリギリのところだった。
何度か深呼吸をしてから、膝に手をついてゆっくり立ち上がる。まだ足も、手も、息も震えていた。電車のドアに背をもたれかけさせて、緊張が取れてくるのを待つ。
少しずつ、自分が逃げ切ったということに実感が持てるようになってくる。
私は、追手の“力”による攻撃を自分の“力”で防いだ。あいつが目立つ真似をしないように、人の多い場所を逃げ道に選んだ――そしてそれは、体力温存にも役に立った。最小限の〈念動力〉で、追跡を妨害した。
そう考えると、何だか悪い気分じゃなくなってくる。
自分一人の力で、このピンチを切り抜けたんだ。ひょっとしたら、今の私って、結構クールだったんじゃないかな。
そうだ、アユミは大丈夫だろうか。
サラは携帯電話を確認し、アユミから何度も着信があったことに気づく。
急いで、「逃げ切った」とメッセージを送る。
数秒後にアユミから返事が来る。「今どこ?」
電車はちょうど駅に到着するところだった。
「下北沢駅」サラは標識を確認してメッセージを送る。
「そこで降りて待ってて。私もすぐに行く」アユミからのメッセージにはそう書かれていた。
サラは下北沢駅で電車を降り、改札を通り抜ける。
アユミが来るまでの間、駅の周りを少し歩いてみることにする。同じ東京でも、渋谷や表参道とは違って、歴史の古さのようなものを感じる。あっちが新市街なら、こっちは旧市街みたいだ。そういえばインターナショナルスクールの同級生が、このあたりはライブハウスが多いと言っていたのを思い出す。
歩きながら、サラは襲ってきたあの超能力者のことを考える。
“警察だ”とか言ってた気がするけど、本当だろうか。仮に本当に警察の人間だとしたら……なぜ、アユミを追っているのか。彼女がやったことを、警察が把握しているということはあり得るだろうか。
確かに超能力者なら、“力”を使った“痕跡”から、誰が何をしたか分析することができる。もし警察に、超能力者チームみたいなものがあれば……アユミまで辿り着くかもしれない。
もし捕まったら、アユミは殺人罪で起訴されるのだろうか。
サラは胸の奥がきりきりと痛む。アユミが巨漢を殺して消したのは、無茶をした私を守るためだった。その前に、アユミが男六人を倒したときだってそうだ。そもそも、イマナカとかいう男がアユミを襲おうとした時、私が飛び出さなければ、アユミは上手く問題を解決して、あんな大ごとにはならなかっただろう。
アユミは悪くない。こうなったのは、私のせいなんだ。
こんなことでアユミが捕まるなんて、絶対にあってはならない。
「すみません、少し良いですか?」
後ろから声をかけられ、サラは振り返る。
そこには一人の女性が立っている。かけている眼鏡も含めて、全体的に地味な感じのルックス。フード付きジャケットを着ていて、ハイキングから帰ってきたオフィスワーカーみたいに見える。
「どうしたんですか?」
サラは答える。もし道に迷っているとかなら、別の人に尋ねてもらうしかないけど。
女性は口を開く。
「私、伊関杏子といいます。神前亜由美さんのことで、少し伺いたくて」
その名前が出た瞬間、サラは考えるより先に全速力で駆け出す。
そんな、馬鹿な——。
驚きのあまりにショートしそうな頭で、必死に状況を考える。
追手は振り切ったと思っていた。だが、それは間違っていた。
確かにあの男は撒いたけど、別の人間が私を付けていた。
どこでバトンタッチした? あの、電車に乗った時点で?
それとも、最初から複数人で追跡していたのか?
——いや、それを考えるのは後でいい。今は、逃げ切らないと。
サラは前方に跳躍し、身体をひねってフェンスを超えると、全速力で高架下の空き地を駆ける。照明のない闇の中で〈空間認識〉を発動させ、周囲の地形を捉える。それと同時に、追手の位置を確認する。
10メートルほど後方に、イセキと名乗った女の存在を感じる。
間違いない。こいつも超能力者だ。今の私のスピードについてこれるのだから。
ああ、もっと警戒しておくべきだった。あんなに接近されるまで、“気配”に気づかなかったなんて。
コンクリートの橋柱の間を駆け抜けていると、やがて仮設フェンスに囲まれた開発用地に飛び出る。
サラがミスを犯したのは、そのときだった。
工事用の仮設事務所を飛び越えるときに、着地地点に転がっていた単管パイプを踏んでバランスを崩したのだ。
咄嗟にダイブロールで受け身をとったが、スピードを大きく落としてしまう。
背後から、女の気配が近づいてくる。
サラは覚悟を決め、追手の女に向き直る。
女は5メートルほど離れたところで足を止め、サラを見つめる。最初に駅のそばで声をかけてきた時と同じような立ち姿で、息を切らす様子は全くない。
「あなたのこと、何て呼んだら良いですか?」
女はそう訊いてくる。
サラはそれには答えず、質問を返す。
「どうして、アユミや私を追うんですか?」
「事件に関わっていると推測するからです」女は答える。「私は警察の依頼を受け、捜査をしています。先月以降、超能力者による事件が二件あった。私の言っていることはわかりますね?」
サラは唇を噛む。やはり、警察は知ってるんだ。それも、二つとも――イマナカの件と、大男の件。
「実行したのは、神前という超能力者だと考えています。あなたもその現場にいたけど、実際は特に何もしていないですね。私にはわかる。だから、あなたのことを、どうこうするつもりはない。ただ、神前について知っていることを教えてほしい。それだけです」
サラは、怒りで頭が真っ白になる。
“アユミを売れ”――この女は、私にそう言ってるんだ。私の大切な人で、命の恩人でもあるアユミを、裏切れ、と。
侮辱するにも、程があるだろう。
「……嫌だ、と言ったら?」サラはそう答える。
女は表情を変えない。「気持ちは察します。でも、考え直してほしい」
サラは首を横に振って言う。「考え直す余地は、ない」
「神前を庇うのは、あなたの不利益になりますよ」
女は説き伏せるように言う。
その説明口調が、サラを一層苛立たせる。
アユミが、私の、不利益? お前に、何がわかる?
「あんたこそ……アユミと私に、関わるな!」
サラは叫ぶ。
「人が死んでいるんですよ。そんな事件を放っておくことなんてできない」
女が、一歩サラに近づく。
「これ以上近づくと、あんたの不利益になるよ」
サラは右足を引き、半身に構える。
女には、考えを変えるつもりはなさそうだ。
私だって、アユミのことを話すつもりはない。
それなら――戦うしかない。
「ここで“力”を、使うべきではありません」
女は諭すように話しかける。いちいちムカつく奴だ。
もう一度、女の全身を見る。両足を肩幅に広げ、両手をだらりと垂らして直立している。表情からは、どこを見ているかも、何を考えているかも、やる気があるのかもわからない。
サラは両拳を握る。“力”を全身に廻らせ、いつでも〈身体強化〉できる準備を整える。
この空き地に飛び降りた時点で、戦いになる覚悟はできていた。
自分自身のコンディションを確かめる。自称刑事の男を振り切るときに少し“力”を使ったが、まだ全然余裕がある。二週間前に、スタミナ切れでやられた時とは違う。
今度は私が、この変な女からアユミを守る。
私が、相手になってやる。