高架の下、バスケットコートほどの広さの工事用地で、二人は睨み合う。
「別にあなたをどうこうするつもりはないんです」イセキと名乗った女は言う。「質問に答えてくれるだけでいい。……でも、ここで暴れたりするなら、黙って見ているわけにはいかない」
「じゃあ、あんたが失せろ」サラは言い返す。
女はサラを見つめたまま、首を横に振る。
交渉は決裂。そもそも初めから、成立する可能性はゼロだったが。
「もう一度言う」イセキは声のトーンを落とす。「ここで“力”を使うのは許さない」
「私に——指図するなっ!」
サラは背後の仮設事務所に立てかけられた単管パイプを〈念動力〉で持ち上げ、女に投げつける。
長さ2メートルの鉄製のパイプが、弩弓から射出されたように飛んでいく。
しかし、その先にいるはずの標的の姿はもうない。
次の瞬間には、女はサラの目の前まで走り寄っている。
「くっ……」サラの反応が、遅れる。
女は上体を後ろに倒し、滑り込みながらサラの軸足を蹴る。
ステップバックしようとしていたサラはバランスを崩し、地面に転がる。女は滑り込んだ勢いを使って立ち上がると、サラに覆いかぶさって抑え込みにかかる。
「このっ……!」サラは〈念動力〉を発動して女を掴み、投げ飛ばそうとする。
だが、女を動かせたのは一瞬だけだった。女との“引力”は感じる。でもそこに働きかけようとしても、“力”がすり抜けていってしまう。まるで、水を手繰り寄せようとしているかのようだ。
女は少しバランスを崩しただけで、数歩たたらを踏んだ後は何事もなかったかのように歩きながら、再びゆっくりとサラに近づく。
サラは自身に〈念動力〉を使って低空を飛び、一気に間合いを取る。
コンクリートの柱の前に降りて、サラは女と向かい合う。
今起こった出来事を振り返る。飛べたということは、私の〈念動力〉が発動していないわけじゃない。ただ、あいつには効かなかった。なんで、私の“力”はあの女に通用しないんだ。
女は、工事用地の中央に立ってサラを見据えている。高架を支えるコンクリートの柱と梁が、まるで巨大な檻のようにサラには感じられる。柱を背にした自分が、追い詰められているような気がしてくる。
心の中に、疑念と焦りが生まれる。イセキ・キョウコと名乗ったあの女……あいつは、どれくらい強い? 私は、あいつを倒せるのか?
サラは構え直そうとする。
その時には、女は間合いに入っていた。
「なっ…!?」サラには見えていなかった。視界には入っていたはずなのに、認識が追いついていなかった。
反射的に繰り出したサラの右フックは空を切り、女は掌底でサラの脇腹を打つ。
位置、角度ともに、機械のように正確な一撃だった。その衝撃は肋骨を透過し、肝臓の隅々に行き渡って、苦痛を与える。
「うっ、ぐ……!」
息が詰まり、意識が遠のきそうになる。サラは両脚を踏ん張り、崩れ落ちそうになる身体を何とか支える。意地でも、地面に膝はつけられない。
やられる一方でたまるか――サラは左脚をしならせ、女のレバーを狙って三日月蹴りを繰り出す。
女は表情ひとつ変えずに右脚を上げて蹴りを防ぐ。そのまま右腕でサラの太腿を抱え、左手でシャツの襟を掴むと、コンクリートの柱に投げつける。
背中から柱に叩きつけられたサラは、そのまま地面に倒れ込む。
「“力”を使うのは、許さないと、言ったでしょう」
女は直立姿勢でサラを見下ろし、無機質だが威圧感のある声で言う。
サラはうつ伏せに倒れたまま、脇腹を庇いながら頭を持ち上げる。コンクリートの柱に囲まれた薄暗い空間に、女のシルエットが浮かんでいる。
言い返したいのに、言葉を発することができない。横隔膜が強張り、呼吸をすることもままならない。まるで内臓を直接手で揉みしだかれるような苦しみは、時間が経っても和らぐことはない。
身体を最大限に〈強化〉していたのに、たった一発の打撃で、立つこともできなくなった。腕も、脚も、無傷なのに。“力”のスタミナだって、十分残っているはずなのに。
まだ私の攻撃は、一つも当たっていない。
くそっ――サラは歯を噛む。
冗談じゃない……このまま、やられるなんて。
「もう一度言います」女は同じ無機質な調子で話す。「神前亜由美について知っていることを、教えてください」
アユミ。その名前だけが、奇妙なほどはっきりと聞こえた。
そうだ。私が戦わないと――あいつとアユミは、殺し合う。
私が、戦わないと。
サラは両手で地面を押し、四つ這いになる。少しずつ、息を吸い込めるようになってきている。
コンクリートの柱を支えにして、立ち上がる。動くたびに腹部全体に痛みが走るのを必死に堪える。
「聞こえましたか?」女が訊く。
「……断る」サラは声を絞り出す。
女は小さくため息をつく。
サラは女を見据え、すべきことを考える。〈身体強化〉しても、格闘ではあいつに勝てない。〈催眠〉は、今の私には使いこなせない。〈念動力〉は、効かせられるのは一瞬だった。
それなら――その一瞬で、持てる全てを出し切る。
女は質問を変える。
「神前は……あなたにとって、何なんですか?」
サラは答える。
「お前には、分からないよ……絶対にっ!」
同時に、最大出力で〈念動力〉を発動する。狙うのは、女の喉。鍛えることのできない、人体の急所だ。
サラの“力”が届くと、女は微かに顔を歪ませ、首を反らせる。
だが、次の瞬間〈念動力〉で突き飛ばされたのはサラの方だった。
気づけば自分が、コンクリートの柱に四肢を押し付けられ、磔にされていた。
サラはその“気配”に既視感を覚える。
これは……私の“力”だ。
信じられない。こいつは……他人の超能力をコントロールできるんだ。
女は軽く自分の喉を撫で、咳払いをする。もう元の無表情に戻っている。
自らの“力”によって身体の自由を奪われ、サラは恐慌状態に陥る。
「くそっ、返せ!」サラの声が掠れる。「私の“力”を返せ!」
女は答えない。
静かに歩み寄ると、サラの鳩尾に拳を埋め込む。
「ゔっ……」湿った呻き声が漏れる。
手足を固定していた〈念動力〉が解除されると、サラは身体を折り、前のめりに崩れ落ちる。
顔が地面に触れる感覚で、サラは意識を取り戻す。
口の中は砂と胃酸の味がする。酷い立ち眩みを起こしたように、視界は暗く狭く、全ての音が遠くから聞こえる。
身の置き所のないような苦痛に悶える。息が、できない。吐きそうだ。
視野の真ん中に、女の足が見える。サラは右手を伸ばし、その足首を掴む。まだ燃え尽きずに残っていた闘志が、辛うじてサラを動かしていた。
「アユミ……に……近づくなっ……」
そう言うのが精一杯だった。もう、肺の中に空気が残っていない。
女は掴まれた足を振り、サラを仰向けに転がすと、馬乗りになる。
「目を覚ましたら、全部話してもらう」
そう言うと、サラの首に左腕を回し、自身の右袖を掴む。そして右の手刀を首筋に押し当て、絞め上げる。
サラは手足をばたつかせて抵抗を試みるが、女の手はびくともせず、袖車絞めで確実に頚動脈洞を圧迫する。迷走神経の反射により血流が減少し、脳は酸欠を起こす。
サラの眼前は漆黒に染まり、意識は闇に堕ちていく。