亜由美は大の字に倒れているサラの隣にかがみ込む。
「ううっ……」
サラは意識を取り戻しつつあった。顔を歪め、腹部を手で押さえながら咽せ込む。
「痛い?」亜由美はサラの身体をさすってやる。
「……アユミ……?」
目を開けたサラは、自分がどこにいるか確かめるように、周囲を見回す。
工事用地の中央に立つ女の方を向いた瞬間、全身を緊張させる。
「アユミ、逃げて……」サラは嘆願するように言う。「あいつは……化け物……」
「化け物、ね」亜由美は笑顔をつくる。「私もだよ」
それから、サラの目を覆うように手を当てて〈催眠〉をかける。
「痛みを忘れて、寝ときなさい」
あっ、と小さく声を漏らし、サラは眠りに落ちる。
亜由美はサラが吐瀉物で窒息しないように、回復体位をとらせておく。
「神前亜由美さん、ですね?」
声をかけられ、亜由美は振り向く。
アークテリクスのフード付きジャケットを着た若い女性が立っている。背景の暗がりと半ば同化して、輪郭を捉えにくい。
サラは、この女を見て怯えていた。こいつが、サラをこんな目に合わせたんだ。
よくも、やってくれたな。
「伊関杏子といいます」女はそう名乗る。「警察の依頼を受け、事件の捜査をしています。話を聞かせてもらえませんか」
「私に用があるんですね?」亜由美は訊き返す。
「ええ」
「じゃあ……」怒りが爆発しそうになるのを抑える。「どうして、この子を痛めつけたんですか?」
「指示に従わなかったからです」伊関と名乗った女は淡々と述べる。「警告を無視して、“力”を使って、攻撃してきたからです」
「あなたには他人に指示する権限がある?」
「さっき言った通り、警察の依頼で……」
「証拠は?」亜由美は話を遮る。「根拠になる法律は?」
「……気になるのはわかりますが、それを提示することはできません。明文化されていない、極秘裏の捜査だからです。そもそも超能力についての法や制度自体が未整備なんです」
伊関はまるで、契約書か何かを読んでいるかのように説明する。
「それで、どうして信じろと?」亜由美は訊く。
「ですよね。……それでも、信じていただかないと」伊関は肩をすくめる。
「ふざけんのも大概にしとけよ」亜由美の怒りは抑えられる限度を越えようとしていた。「他人を馬鹿にしてんのか?」
「馬鹿にはしていません」伊関は首を横に振る。
「してるやろ!」亜由美は叫ぶ。「他人を馬鹿にして、踏みにじって。……お前も超能力者ならわかるやろ、この子は、関係ないって!」
「そうは思わない。超能力者で、あなたと同じ場所に“痕跡”を残し、あなたの話をすると攻撃してきた。関係ないなんて、それこそどうして信じられるんですか?」
酸化鉄のように重く暗い闇の中で、二人は睨み合う。
亜由美は伊関から目を離さないようにしながら、すべきことを考える。
あの女が憎い。サラを傷つけたあいつを、同じ目に遭わせてやりたい。でも、まずはサラの安全を確保することが最優先だ。
そこさえクリアできれば、自分のことは、どうにでもできる。
「じゃあ、こうしよ」亜由美は提案する。「この子を安全な場所に連れてく。それで、あんたらは今後一切この子に関わらない。そう約束してもらえるなら、あんたの“捜査”とやらに協力する」
伊関は、少しの間沈黙してから、首を横に振る。
「私が誰に関わるか、誰から話を聞くかは、あなたじゃなくて、私が決める」
「そこを考え直した方がいい」亜由美はもう一度説得を試みる。「あんたみたいな素性のわからん人に、ここまで譲歩することって普通ないよ。……ただ一言、“あの子に関わらない”って言ってくれたらいい」
「あの子は……あなたにとって、何なんですか」伊関が訊く。
「それはあんたには関係ない」亜由美は言い捨てる。
伊関は静かにため息をつく。
「はっきりさせておきましょうか。今仲涼太を含む六人を意識不明の重体にしたのも、武政陸斗を殺害したのも、神前さん、あなたですね」
亜由美は背筋に冷たいものが伝うのを感じる。こいつは、ちゃんと把握している。“武政”というのがサラを襲った巨漢のことだとしたら――両方とも、私がやったことだ。
「たとえ証拠がなくても、私の感覚は欺けない」伊関は続ける。「超能力者なら、あなたの“痕跡”を捉え損なうことはない。暴行に、殺人。それが、あなたの行ったことです」
亜由美は、罪の意識が胸に浸潤していくのを感じる。
二件とも、その場で思いつく最善の対応をしたつもりだった。だが、それを他者から指摘されることで、自分のしたことが何だったかを思い知らされる。
自分の行為が、どれほど異常で、残酷だったかを。
だが……今は懺悔をする時間ではない。サラと自分を守る時間だ。
「じゃああんたも、傷害罪で逮捕か」亜由美は言い返す。「それともあれか、手前の暴力は許されるんか?」
伊関はそれを無視して続ける。
「あなた達にも事情はあるのだろうとは思います。それでも……例えば、逆にあなたが警察の人間だったとして、殺人を犯した人間を自由にさせますか? 捜査の主導権を、その人に委ねますか?」
「私が警察の人間なら、犯人でもない人を殴ったりはしないな」亜由美はそう返す。
「改めて伺います」伊関は声のトーンを落とす。「私の指示に従って、捜査に協力して頂けますか」
伊関の声は静かなのによく通り、形容しがたい迫力があった。
彼女が一歩も引くつもりがないことを、亜由美は感じ取る。
どう動くか決断を迫られた亜由美は、急いで簡単な場合分けをする。
その一。あの伊関という女が本当に、警察の関係者だった場合。
もし、自分のやったことが全て警察に把握されていたら――私の人生は詰む。そしてサラの人生にも、消せない汚点を残すことになる。だが、私もサラも、あの現場に物的な証拠は残していない。今のところ私が殺人を犯したといえる根拠は、伊関の“力”による感覚しかない。あいつが言った通り、本当に超能力に関する法整備がされていないのであれば――伊関を使い物にならなくすれば、警察は私たちに手を出す根拠を失うはずだ。
その二。伊関が本当は警察と関係がない場合。
その場合は簡単だ。今仲や、サラを襲った大男――武政、といったか――と同じように対処すればいい。
結局、結論は同じになる。
「じゃあ、こうしよ」亜由美は伊関に言う。「あんたはここで心を壊され、全てを忘れて眠り続ける」
伊関は表情を変えずに答える。「素直に協力しないと、手段を変えてお願いすることになる」
「へえ、どんな手段?」
「あまり、私を、試そうとしない方がいい」
伊関の“気配”が変わる。
亜由美も、超能力の“出力”を高めながら、戦いの覚悟を決める。
私は、サラをこの状況から救い出す。
そして、一ヶ月間ずっと頭痛の種だったこの馬鹿騒ぎにピリオドを打ち、元の生活に戻る。
そのために、まずはさっさとこいつを倒し、私たちについて知っていること全てを消し去る。
だが――そんな亜由美の目論みは、すぐに音を立てて崩れ去ることになる。