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 気がつくと、亜由美の視界にコンクリート製の天井が映っている。

 ゆっくりと状況が思い出されていく。同時に、左頬にアイロンを押し付けられたような痛みが蘇ってくる。

 そっか。私はやられたんだった。

 全身から力が抜けていく。“敗北”の二文字が心に染み渡り、戦って生き抜く意志をぼろぼろに崩していく。

 これでもう、お終いだ。最初から、勝てる見込みなんてなかったんだ。あんな、超能力者を狩るために生まれたような“力”の持ち主に。

 視界が、涙で滲んでくる。


 自分の心を繋ぎ止める、最後の繊維が千切れそうになったそのとき、視界の片隅に倒れている少女が映る。

 ――サラ。

 亜由美はうつ伏せに転がり、首を持ち上げてサラを見つめる。

 あの子は、こいつに立ち向かった。自分自身と――多分――私を守るために。

 体を持ち上げて、四つ這いになる。まだ少し力が入りにくいが、手も足も動く。

 あの子が最後まで戦ったのに、私が途中で勝負を捨てるなんて、ありえないな。

 ゆっくりと立ち上がり、伊関の方に向き直る。

 伊関は、少し離れた場所に立ち、亜由美を見ている。


「もう、これ以上は何もないよ」“分身”が亜由美に訴える。

「ないことない」亜由美は心の中で答える。

「あいつには、勝てないよ……」

「勝てんくても、負けんかったらいい」

「降参した方が、生き残れる可能性は高い」

「そういう問題ちゃう」

「どうして?」

「降参したら、私とサラの運命を全て、あいつに委ねることになる。私だけじゃない、あの子の運命も懸かってる。他人に生き死にを決められるなんて、私は御免やし、きっとサラもそう」

 “分身”は俯く。実体はなくても、亜由美にはその仕草が感じられる。


「でも……じゃあどうするの?」

「ここから巻き返す」

「……どうやって?」

「作戦はある。ただ、それを実行するには、今以上に大量の“力”が要る。それを得るために、〈オルタナティブ・レイヤー〉と繋がる“伝送路”を拡張する」

「そんな……」“分身”の声が震える。「そんなことしたら……」

「そうや」亜由美は心の中で、悪戯っぽく笑ってみせる。「私は〈境界空間リミナル・スペース〉と一体化して戦う」

「危険すぎる」“分身”は首を横に振る。「帰って来れなくなるかもしれないよ?」

「大丈夫。私が大丈夫言うたら、大丈夫や」


 亜由美は“矢”よりも一回り小さな“針”を〈生成〉して左の三叉神経――殴られた左頬の感覚を司る神経を刺し、麻酔をかける。

身体を動かすたびに響いた激痛が、意識しなければ気にならない程度まで和らぐ。

大きく一度深呼吸をして、伊関を見据える。


「よっしゃ、行くで」亜由美は心の中で“分身”に声をかける。

“分身”が答える。

「……わかった。行こう」






 杏子は予想しなかった光景を前にして、心が波立つのを感じる。

 完全に相手の虚をついた、自分でも手応えのある一撃だった。これで決着がついたと思っていた。

 なのに、神前亜由美は立ち上がった。

 自然体を装っているが、足に力が入りきっていないのがわかる。まだ脳震盪から十分に回復していないのだろう。顔の下半分は、両鼻からの出血で暗赤色に染まっている。まるで死体が起き上がってきたような姿だ。

 だが、目は死んでいない。ぎらりと輝く双眼は杏子に焦点を合わせている。射殺すような視線を感じる。

 立ち上がる瞬間に追い打ちをかけていれば、確実にとどめを刺せていたかもしれない。でも、出来なかった。迂闊に近寄ることを許さない何かが、神前にはあった。

 こいつは、私の予想をことごとく覆してきた。

 私の打撃をことごとく防ぎ、返し技まで狙ってきた。

 私の“力”の性質を見抜き、その上で想像だにしなかったような攻撃を仕掛けてきた。あれは、未分化な“力”を私に注ぎ込み、オーバーフローさせることを狙ったものだろう。正直、一瞬ひやりとした。うまく地面に“力”を逃がせなければ、危なかったかもしれない。

 そして今、確実に大ダメージを与えたはずなのに、こうして私の前に立っている。


 何が神前を、そこまで強くしているのか。

 私は――本当にこいつに勝てるのだろうか。

 一瞬浮かんだその考えを、杏子は吐息とともに捨てる。

 勝つとか負けるとかじゃない。

 これは、私の任務だ。

 私は、抑止力にならなければならない。


 杏子はもう一度息を吐き、感覚を研ぎ澄ます。

 そこで神前の姿に異変が起こったことに気づく。

 同じ場所に立っている。闇に浮かぶシルエットにも変化はない。

 だが――彼女自身を明確に認識できない。

 ピントの合わない像に、不規則な光の波が混ざる。網膜と視神経が、彼女を映す部分だけ麻痺しているかのようだ。

 杏子は、神前の存在が質的に全く異なるものになっていくのを感じる。そしてそれは、過去に体験したことがないものだった。

 これは――この世のものなのか?

 あいつは、何者に変貌しようとしているのか?


 彼女の外見が、まるで五感をすり抜けるように捉えどころを失っていくのに反比例して、“気配”は濃密になっていく。まるで、“力”そのものと向き合っているかのようだ。

 その中に、杏子は神前の意志を感じる。

 バグを起こした影のようになったその姿形から、さっきまで感じていたのと同じ、真っ直ぐな闘志が伝わってくる。

 やはり、見え方が変わっても、あいつは神前亜由美のままだ。私を倒し、この戦いに幕を下ろそうとしているんだ。

 なら私も、やるべきことをやるまでだ。あいつが動かなくなるか、屈服するまで、攻撃を続ける。

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