神前が手を突き出すと、そこに“矢”が生み出される。一本。二本。三本。
一発目が発射される。
杏子はしなやかに動き、“矢”を躱す。
問題ない。相手を捉えてさえいれば、いつどんな攻撃が来るかは身体が教えてくれる。相手の意図が伝わってくることで、自分の身体に微かに緊張が生じる。それが解消されるように、快適な状態に戻るように動けば、何も当たらない。
二発目。
これがどういうわけか完全に的を外していた。大きく逸れた“矢”は、杏子から身体一つ離れたところを通り過ぎていく。
ここで、何かがおかしいと気づくこともできた。だが杏子は、自分自身にゴーサインを出す。
地面を蹴って、神前の懐に飛び込むために駆け出す。接近戦で決めるつもりだった。もう、逃がさない。
三発目の“矢”が放たれる。
気づいた時にはそれは、杏子の胸の中心に突き刺さる寸前だった。
「うっ!?」
体をひねるが、間に合わない。“矢”は胸骨の左縁から体内に侵入する。
焦るな――。
息を吐き、撃たれた箇所の緊張を解く。受けた“力”の影響が溜まらないように、手足に流して、逃がす。
“矢”を投げ返す余裕はなかった。
最初に受けたのと比べて、重さが桁違いだ。ダメージを散らしても、まだ胸に絡みつくような、心臓を握られているような不快感が残る。
神前が何をやったかはわからない。ただ分かるのは、彼女が姿を変えてから、超能力の質と量が跳ね上がったことだ。これだと、相手の“力”を利用するのはこれまで以上に難しくなる。
杏子は他の超能力者の“力”を使うとき、一度その“力”を自らの内に受け入れる過程を踏んでいた。これまでは、それで何の問題もなかった。でも神前の“力”は違った。受けるたびに、体内に重い違和感が蓄積していく。あいつの攻撃を極力躱していたのはそのためだった。
そしてそれが、ここにきて一層威力を増している。これでは、下手をすればあと数発もらうだけで動けなくなる。
神前は再び“矢”を生み出し、放つ。
一発目は肩に当たりそうになるのを辛うじて躱す。二発目は、杏子のはるか頭上を超えてゆき、宙に消える。
おかしい、さっきから。まるで狙いを定めずに、ランダムに撃っているみたいだ。私に当てるつもりがないのか?
いや――違う。
そうか……そういうことか。
あいつは、“
攻撃の狙いをわからなくするために、敢えて“自分でもどこに攻撃が飛ぶかわからない”ようにしている。それが一番、私にとって避けにくいということを、あいつは理解している。
神前は、着実に私の“力”を、私を、攻略する方法を見つけ出している。
首筋から体温が奪われていくような寒気を覚える。
これまでずっと、私は他者を狩る側だった。相手をどう扱うかばかり考えていた。
今、初めて、狩られる側の気持ちがわかった気がする。自分の身をどう守るかが最重要課題になり、他人をどうするか配慮する余裕がなくなってくる。
生き延びなければ。
そのためには――こいつに勝たなければ。
やっとだ。やっと、有効打を与えられた。
顔を歪める伊関を見て、亜由美は心の中でガッツポーズをする。今のところ、作戦は上手くいっている。
「大丈夫?」“分身”が声をかける。
「うん。まだ全然いける」亜由美は答える。
〈
だがその負担は、懸念していたほど大きくない。むしろ、楽しささえ覚える。全身に満ち溢れるアドレナリンを味わう。
〈
四つ目の仮説が当たったらしい、と亜由美は思う。
その仮説はこうだ――伊関は、“力”を効率よくコントロールする技術が極めて高い一方で、扱える“力”の量自体は少ない。ハイブリッド車並みの燃費で走るF1カーみたいなものだ。ただし、原付くらいのタンク容量しかない。
そしてそれはおそらく、他者の“力”を使う時にも当てはまる。私の“矢”を躱していたのも、“力”が蓄積して制御不能になるのを避けるためだったのだろう。
だから、〈
そうだとして、じゃあ、どうやって“矢”を当てるか。そこで、五つ目の仮説、というか直感だ。
あいつの回避能力が高いのは、〈身体強化〉を使っているとはいえ、基本的に武術的なスキルによるものだ。こちらのわずかな殺気や意図を感じ取って、反応している。理論的には、あいつと同レベルの、虚実をコントロールする技術があれば攻撃は通るはずだが、私には無理だ。
そこで――敢えて自分の攻撃をランダムにする。“分身”に作成してもらった関数で、自動的に“矢”の飛ぶ向きに傾きを加えるのだ。もちろんランダムなので、命中率は低いだろう。でも、あいつにとっては、より避けにくくなるはずだ。現に、計五発のうち一発だけだが、私の攻撃は伊関に届いた。
「今の、効いてるよ」“分身”が言う。
「うん」亜由美は心の中で頷く。「これで、流れを変えられる」
「これから、どうするの?」
「勝負を、できれば互角のところまで持っていく。最低でも、あいつに、これ以上戦うのは割に合わないと思わせるまで。それで、停戦に持ち込む」
「停戦……最初から、そのつもりだったの?」
「最初はあいつを倒すつもりだった。でもすぐに、それは不可能だとわかった。かといって、やられるわけにも、無条件に降伏するわけにもいかない。それなら、引き分けしかない」
亜由美は心の中でそう言う。
「そうだとしても……どうするの?」
“分身”が訊く。
「これまで通りにやる」亜由美は答える。「相手の攻撃から逃げながら、こっちの攻撃の試行回数を稼ぐ。それで相手を削れればいいし、最悪、膠着状態でもいい」
「……いつまで?」
「とりあえず、日が昇るまで」
根拠があるわけではない。ただ、相手は目立つことは絶対に避けたいタイプに見える。夜が明けて、人目につくリスクが増せば、戦いをやめる選択肢が魅力的に思えてくるはずだ。
「……簡単じゃないね」“分身”が言う。
「やるしかない」亜由美が答える。
わかってる。簡単じゃない。伊関の攻撃は依然として脅威だし、こちらの“矢”は偶然レベルでしか当たらない。
ここからが、正念場になる。
亜由美は長丁場を覚悟していた。
戦いの終わりがすぐそばまで迫っていることは、知る由もなかった。