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 攻撃を受けて一瞬体勢を崩しかけていた伊関は、一歩ステップバックして肩を軽く回し、自然体に戻る。

 その動きからは、疲れもダメージも感じられない。さっきの攻撃は、効果はあったかもしれないが、まだまだ不十分なようだ。

 亜由美は正面に両手を翳し、“矢”を六本〈生成〉する。“力”が増大したことと、個々の“矢”のコントロールを厳密に行う必要がなくなったことから、同時に〈生成〉できる“矢”の本数も増加している。

 “矢”を空中に保持したまま、亜由美は注意深く相手の出方を伺う。そして、伊関の重心が動いた瞬間を捉え、一斉に“矢”を放つ。


 距離を詰めてくると、亜由美は予想していた。しかし伊関は、大きく真横に跳躍する。

 亜由美にとっては、一番嫌な動きだった。

 “矢”はランダムに飛ぶようにしているが、完全に360度ランダムだと、当たる確率が低すぎて許容できない。だから、“矢”の方向が“相手の身体がある位置を中心に、概ね身体一つ分の幅”の範囲にまとまるように調整していた。

 これまで伊関はボクシングのダッキングのように、最小限の動作で攻撃を躱す傾向があったし、その設定で問題ないと考えていた。だが、“矢”の飛ぶ範囲外に移動されてしまうと、結局当たる確率はゼロだ。


 亜由美の放った6本の“矢”は空を切り、消滅する。

 伊関は飛び出したスピードのまま、円弧を描くように亜由美に接近する。


 亜由美は後方に跳躍しながら、再び“矢”を〈生成〉し、撃ち込む。

 そのうちの一発が、伊関の眼鏡を吹き飛ばし、左目を貫く。

「ぐっ!」短い呻き声が漏れる。

 しかし伊関は全く勢いを落とさず、亜由美に突進する。

 マジか――動揺した亜由美の反応が、わずかに遅れる。

 “盾”の〈生成〉は、間に合わない。

 後ろに跳ぼうとしたその瞬間、伊関の手が首に触れるのを感じる。

 視線が交叉する。見開いた伊関の右目の奥に、決意を感じる。

 もう、逃がさない、と。



 結局化け物やんけ――亜由美は内心毒づく。

 〈力〉の増強に成功したのに。作戦だって、ハマってそうだったのに。こんな一瞬で、破られるとか、ありかよ。

 亜由美は覚悟する。

 もう、策はない――最後の一つを除いて。

 そしてそれを実行に移す。



 首にかかった伊関の指に力が入るのを感じる。

 自分を引き込もうとするその力に添うように、亜由美は一歩踏み込み、伊関に組みつく。

 そして――〈境界空間リミナル・スペース〉を解き放つ。

 自分自身の身体を纏うように保っていた〈境界〉を拡張し、伊関をその中に引き摺り込む。


 より深い――より”別の時空”に近い方へ。亜由美は両腕でがっちりと伊関を捕まえたまま、深く深く身体を沈めていく。


 視界が霞む。周囲の存在――コンクリートの柱も、鉄パイプも、フェンスの向こう側に見える街灯の灯りも、全てが曖昧で、不確かに見えてくる。初めて〈境界空間リミナル・スペース〉に迷い込んだときの感覚が蘇る。

 左目に“矢”を受けた伊関は、右目だけを大きく見開いて亜由美を見る。口は半ば開き、白い歯が見える。こいつが動揺を露わにしたのは初めてだ。

 あんたは、この〈空間〉は未体験か。だとしたら、私にとってはいい知らせだ。


「手短かに言う」亜由美は伊関に話しかける。「私たちは今“別世界”にいる。私だけが、元の世界への戻り方を知ってる」

「離せ…!」伊関は亜由美の腕を振り解こうとする。

「離したら、私だけが元の世界に戻る。世界を行き来するには、高い“出力”が要る。私にしかできない。あんたには無理。あんたは“力”の使い方は上手いけど、“出力”が足りない」

 伊関が亜由美の首に腕を巻き付ける。重機に挟まれるような圧力に、亜由美は息を詰まらせる。

 あと一息力を入れるだけで、伊関は私の首の骨を折るだろう。

「私が意識を手放したら、二人とも元の世界に戻れずに死ぬ」亜由美は念を押すようにはっきりと言う。

「そんな嘘、私に通用するとでも?」

 伊関はそう返す。だが亜由美は、それこそ嘘だと考える。伊関は〈境界空間〉を知らない。亜由美の説明の真偽は判断できない。


 亜由美は、運命を分ける提案をする。

「道は二つに一つ。二人でここで死ぬか、サラ――あの女の子の安全を保証するか。それさえ約束してくれたら、私は全部話す」

「そんな提案、誰が飲むか…!」伊関は顔を歪める。

「じゃあ一緒に死のう」

 亜由美は〈境界〉を“閉じ”始める。

 〈境界〉が狭まるにつれ、周囲の景色が不安定に振動しながら、遠くに引き伸ばされていく。鉄道高架も、街明かりも、原型を失い、立体的な模様になって、散らばっていくように見える。


 亜由美は死を思う。

 不思議なことに、自分の命なのに、どこか他人事のように、醒めた感覚がある。

 一か八かで、命を賭けた。賭けたということは、失うこともあるということだ。

 今日の私みたいに。

 元いた世界との接触が途絶える直前に、亜由美は思いを巡らせる。

 気がかりなのは、サラと、母くらいだ。

 サラは、少し経てば目を覚ます。賢いし強いから、一人で何とかするだろう。

 母も、強い人だから、きっと大丈夫。

 ただ、謝れたらと思う。最後まで親不孝な娘で申し訳ないと。

 それ以外に、思い残すことはない。私に相応しい最期だ。

 亜由美は〈境界〉を“制御”し、現実世界から消滅する最後の作業に入る。



「……わかった」

 伊関が言う。

「今、何て?」作業の手を止めて、亜由美は確認する。

「提案を、受け入れる」伊関は、噛み締めるように言う。

「約束は、守れる?」

「何度も言わせないで」

「……じゃあ」

 亜由美は閉ざしかけていた〈境界空間リミナル・スペース〉を拡張し、慎重に、元いた時空に近づく。

 壊れたデータをレンダリングしたような世界が、少しずつ構造と秩序、そして概念を取り戻していく。

 〈オルタナティブ・レイヤー〉側から十分に遠ざかったことを確認してから、今度こそ〈境界〉を完全に消滅させる。

 周囲の現実が、現実感を取り戻す。


 二人は、お互いに掴み合っていた手を放す。

 フェンスとコンクリートに囲まれた舞台で、視線をぶつけ合う。

「それじゃあ」亜由美が切り出す。「あの子を安全な場所に寝かせて、一時間後に戻ってくる。それから約束通り、全て話す。これでどう?」

「そうして下さい」伊関は応じる。「戻って来なかったら……こちらから、あなたとあの子の元に伺います」

「必ず戻る。そっちこそ……次あの子に手を出したら、その時は差し違えてでもあんたを地獄に送るからな」



 亜由美はそう言い残すと、伊関を視界から外さないまま、ゆっくりとサラの方に歩み寄る。

 サラは地面に横たわり、眠っていた。その胸と腹が細かく波打つのを見て、亜由美は安堵感を覚える。

 サラの首を支えながら抱き上げ、背中に担いでから、亜由美は戦場を後にする。

 フェンスを飛び越える前に、もう一度伊関に目をやる。

 伊関は工事用地の中央に立ったまま、亜由美を見据えていた。

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