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 意識のない少女を背負った神前亜由美がフェンスの外に消えるのと同時に、伊関杏子はその場に膝をつく。

 はぁ、と声を漏らす。

 まったく、なんて酷い有様だ。


 そのまま仰向けに寝転がり、大の字に手足を伸ばす。全身が、がちがちに緊張しているのに、やっと気づく。

 鼻から息を吸い、口から吐く。それを小刻みに、リズミカルに行う。

 フッフッフッ……と呼吸を繰り返していると、少しずつ全身の緊張が解けて、早鐘を打っていた心臓も落ち着いてくる。心拍数が戻るのに合わせて、呼吸もゆったりとしたリズムに変えていく。自身が快適でいられるやり方で、呼吸を続ける。

 息を吸うのと同時に、全身の感覚をスキャンする。神前の“矢”を受けたのは左胸と左目の二カ所。左胸は改善してきており、心臓を糸で吊られ操られるような不快感は消えている。左目はまだうまく開かないし、無理に開けても眩しくて何も見えない。でも、もう少ししたら回復するだろう。

 リラックスした感覚が戻ってくるのと同時に、タールのように重く粘っこい疲労感と、目を開けているのも困難なほどの眠気が杏子を襲う。




「杏子さん!」

 肩を揺すられて目を覚ます。

「聞こえる!? しっかり!」

 そこにいたのは、山名雄介だった。

「……無事だったんですね」

 杏子はそう言いながら、ゆっくり体を起こす。

「それはこっちのセリフだよ」山名は苦笑する。「君、死んでんのかと思ったぜ」

「……恥ずかしいところをお見せしました」杏子は小さく頭を下げる。


「俺はというと、無事ではなかった」山名は杏子の隣にどかりと腰を下ろす。「いや、マジで死ぬかと思ったよ。あの、神前って奴に全身を麻痺させられて……やっと身体が動くようになったから来たんだ。まだ身体中ヒリヒリするけど。正座した後の足みたいに」

 気が昂っていたのか、山名は一気に話す。それから一呼吸置いて、杏子に訊く。

「……杏子さん、負けたの?」

「いえ、引き分けです」

 杏子は咄嗟にそう答えるが、内心ではわかっていた――私は負けたも同然だ。

 戦いそのものは、私が優勢だった。でも最後、あいつの言う“別世界”に連れ込まれたときは、何もできなかった。高圧の水流に飲み込まれ、身動きが取れないまま全身を引き裂かれるように感じた。

 その中で要求を突きつけられ、私はそれを飲まざるをえなかった。

 杏子は自分を睨みつける神前の眼を思い出す。

 あいつは、死ぬ覚悟ができていた。私にはそれがなかった。だから、チキンレースに負けた。


「じゃあ……神前を逃がしたのか?」山名が訊く。

「いえ。彼女は、もう一人いた女の子……その子を、安全な場所に寝かせてから戻ってきます」

「何であいつから戻ってくる?」

「約束したんです。私が女の子の安全を保証するという条件で、この事件の顛末を話す、と」

「……信じるの?」

「信じてみようと思います」伊関は山名を見る。「約束を破るようなら、今度こそあいつを無力化するまでです」


 山名は杏子を少しの間見つめてから、大きく息を吐く。

「……まあ、そうするしかないか。ここで待つの?」

 杏子は頷く。

「私は待ちます。……後は私一人で何とかするので、山名さんはもう休んでください」

「何で俺を帰そうとするの?」山名は怪訝そうにする。

「危険だからです。神前との話し合いが決裂したら、再び戦うことになる。そうなったら、私は自分のことで精一杯になる。あなたを庇う余裕は、多分ない」

「俺は足手まといってことかよ」

 山名が皮肉な笑みを浮かべるのを見て、杏子は気まずくなる。

「……そうは言ってません」

「別にいいよ。確かに、もし戦闘になったら、俺は無事じゃ済まないだろう。でもそれくらいは覚悟してるよ。というか、普通に考えて、話し合いの場に警察官はいた方がいいだろ。実際、俺は杏子さんと一緒に、神前ともう一人の子の追跡をしてたわけだし。こっちはこういう事情があってやってたんだという話をするなら、俺は残って加わるべきだろ」

 杏子は黙る。確かに、山名の言うことは間違っていない。

「君が何と言おうと俺は残るよ」山名は杏子の目を見て言葉を足す。「俺だって、この件を解決させておきたいんだ」

「……わかりました」

 杏子は山名の提案を受け入れることにする。


 二人が腰を下ろしている工事用地を無機質な静けさが満たす。さっきまでここが命を賭けた戦いの舞台だったとは、とても思えなかった。

 そうだ、時間――杏子はスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。意識を手放していた時間はさほど長くなかったようで、約束の時間まで、まだしばらくある。


「俺は会談に備えて栄養を取るけど、杏子さんの分も何か買ってこようか?」

 山名は立ち上がり、スーツの砂を払いながら訊く。

 杏子は自分の口がからからに乾いていることに気づく。身体が水分を欲している。あと、糖分も。

「すみません、じゃあ、何かスポーツドリンクをお願いします」

「了解」

「その間に、石井さんと瀬崎に報告しようと思うのですが……」

 杏子が訊きたいことを、山名はすぐ理解したようだった。

「俺が君の“同類”だってことは、まだ伏せておいてもらえる?」

 杏子は頷く。


 山名が工事用地を離れてから、杏子は石井と瀬崎にメッセージを送る。

 すぐに二人から反応があり、その場でウェブ会議アプリを使ったミーティングが始まる。

 左眼瞼が垂れたままの杏子の顔を見て、石井は深刻そうな表情になる。

「無事なのか、伊関さん?」

「はい、すぐ治ると思います。心配おかけしてすいません」

 杏子は頭を下げる。それから今日起こった出来事の報告をする。今仲を傷つけ武政陸斗を殺した犯人を特定したこと。その関係者である少女を捕らえたところで、犯人――神前亜由美と戦闘になり、二人を逃がしたこと。神前が約束を守るなら、再び会って話し合う予定であること。

 山名が捜査に加わっていたことは、話さないでおく。


「お前が無事で、ほっとしたよ」瀬崎がそう言って、ふっと笑う。

「……本当に、すみません」

 杏子はカメラ越しに頭を下げる。

「何を謝ることがある?」石井が訊く。

「……失敗したこと。神前を、制圧できなかった。私は、勝たなければならなかったのに。自分の任務を果たすことができなかった」


「伊関さん」石井は諭すように言う。「この前あなたは言っただろ、戦いはしない、仕事をするだけだって。確かに、そいつと戦って倒せなかったかもしれないが……仕事はまだ終わってないんじゃないか?」

「……」杏子は言葉に詰まる。

「大事なのは、超能力者の犯罪行為を抑止することだ。俺はそう考えている」石井が続ける。「実力行使で抑止できるなら、それでもいい。ただ、今回みたいに、強すぎて潰せない、迂闊に手出しできないような奴だって当然いるだろう。きっと今後も、そういうのは出てくるぞ。そして、そういう連中相手にどうするかを考えなきゃいけない。繰り返しになるが、犯罪抑止が俺たちの目標だ。悪党を簡単に退治できればいいが、それはあくまで手段の一つだ。それができない相手には、他の方法を見つけなきゃならない。それが、これから杏子さんがやらないといけないことだ。やれるか?」

「はい」杏子は頷く。「やれます」

「俺も、あなたならできると思うよ」石井の声は優しい。「相手をよく知ることだ。よく観察して、話を聞いて。その上で、交渉していく。頑張れよ」


 ビデオを切ると、杏子は頭上の高架を見上げ、大きくため息をつく。

 私は、全然駄目だな。自分の幼さ、視野の狭さに、嫌気が差す。

 あくまで必要なのは戦いではなく、自分の仕事を遂行することだと、理解しているつもりだった。でも、あいつと対峙した私は、戦うことに夢中になっていた。一番重要な目的が頭から抜け落ちるほどに。

 そうだ。私は……心の奥底では、ずっと戦いに勝ちたかったんだ。

 どんな超能力者でも屈服させられることが、自分自身の存在意義だと思っていたから。




「会議は終わった?」

 山名が戻ってきて杏子に声をかける。

「はい、つい先ほど終わりました」

「どうしたの、石井さんに怒られた?」山名は杏子の顔を覗き込む。

「いいえ」杏子は顔を背ける。「アドバイスを頂いただけです」

「優しく、諭す感じで言われた?」

「……そんな感じです」

「雷を落とされなくて良かったじゃない」

「だから、怒られたわけじゃ……」

「ま、大人になってから説教されんのは色々堪えるけど、有難いと思わないとね」

 こっちのことを見透かしているような山名の態度に、杏子は少しむっとする。でも、変に優しい態度を取られるよりはましかもしれないとも思う。気を遣われたら、きっともっと惨めな気持ちになりそうだ。


「ほいよ。ドラッグストアで買ってきた」

 山名は杏子にビニール袋を手渡す。中にはアクエリアスとウイダーinゼリー、それから眼帯が入っていた。

「ありがとうございます」

 杏子は左目に眼帯をつけてから、アクエリアスを飲む。水分と栄養が身体全体に染み渡っていくような感覚を堪能する。生き返る感覚というのは、こういう感覚のことを指すのだろうと思う。

 山名も杏子と向き合うように座り、菓子パンにかじりつくと、ペットボトルのカフェオレで喉に流し込む。

 高架下の暗がりの中で、二人向き合って食事をとっているこの状況は、傍から見たら不自然でしかないだろう。だが、今の杏子はそんなことを気にする余裕がないくらい、栄養補給に夢中になっていたし、山名も同じ様子だった。

 結局、山名が買ってきた飲食物は一瞬で二人の体内に消えた。


「後は、神前を待つだけか」

 口の中のものを飲み込んでから、山名が呟く。

 杏子は頷く。そう、後は神前を待つだけ。そして、そこからが私の正念場になる。

「あいつのことだけどな」山名は言う。「さっき動きを封じられた時は、死んだと思ったよ。でもあいつは、俺を殺さなかった。これは勘だけど――神前の奴、よほどのことがない限り、無意味な殺生はしないタイプなんじゃないか?」


 それを聞いて杏子は、颯介の言っていたことを思い出す。


 ――別の可能性はないか?

 ――そいつもお前みたいに、悪党退治をしてるだけ、とか。


 その可能性を反射的に否定したのには、理由があった。認めたくないけど、認めないわけにいかない。

 私は、その“力”の主に対抗心を燃やしていたんだ。

 他を圧倒する超能力者が自分以外に存在して、しかも自分と似た動機で“力”を振るっているということが、あってはならないことのように思えた。そのせいで自分の価値が損なわれるように感じられて、許せなかったんだ。

 神前亜由美と出会う前――初めてその“痕跡”を認識した時から、私は心のどこかで、そいつと優劣をつけることにこだわっていた。

 なんとまあ情けない、下らないエゴだ。

 これでは、初めから負けていたようなものだ。


「ま、これは希望的観測だけどな」山名は話を続ける。「でも、間違ってはない気がする」

「神前も、自警団的な活動をしてたんでしょうか」杏子は訊いてみる。

「いや……どうだろうな」山名は首をかしげる。「会った印象では、自分から厄介ごとに首を突っ込むタイプには見えなかったけどな。……まあでも、わからん」

「……もう一度会って、話をしてみないと、わからないですね」

 杏子は呟く。自分自身に言い聞かせるように。

 でもすぐに、自分の内心がそれに疑問を呈する。

 話をすればわかる? 相手はさっき殺し合った奴なのに? そいつが本当のことを話す保証もないのに? そして何より……私自身、話す準備が何もできていないのに?


「杏子さんも不安ってものを感じるんだな」

 山名がにやりと悪戯っぽく微笑む。

「いや……」杏子は咄嗟に否定しようとするが、今更取り繕いようがないと諦める。「……そうですね、不安です」

 不安の理由には心当たりがある。

 今まで自分が他者に対して堂々と振舞えていたのは、結局、自分のバックに“力”があったからだ。自分と同格の人間と、ちゃんと向き合った経験が、私にはない。


「もっとポジティブに考えようや」山名は空気を変えるように両手を叩く。「俺もあんたも、今のところ痛い思いをしただけで、何も失ってない。後はあいつとの話し合いが上手くいけば、万事円満解決だろ、違うか? 試合に負けて勝負に勝つみたいなもんだ」

「だから、負けてないです」

 反射的に杏子が言い返すと、山名は笑う。

「杏子さん、意外と反応良いねえ。からかい甲斐があるわ」

「まったく……」

 杏子は大きくため息をつく。こいつ、こっちが凹んでるからって、調子に乗ってるな。

 でも、まあ、おかげで少し肩の力が抜けたのは事実だ。


 深く息を吸ってから、全身の緊張を空気で洗い流すように、ゆっくりと吐く。

 やってみよう。出来るかわからないけど……私なりに。

「山名さん。彼女が戻ってくるまでの間に、交渉の方針を詰めませんか?」

 杏子が提案し、山名が応じる。

「そうだな。あいつが話の通じる人間だと信じて」

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