低い唸り声のような振動音がする。
目は満足に開かず、音を頼りに手探りで発信源を探す。
スマートフォンに、ハンナからの着信がある。
ハンナ……サラのお姉さん。
サラ……。
――そうだ。
亜由美は瞬時に我に返る。
私は、戦っていたんだった。サラを守るために。
そのサラは、ベッドに横たわって寝息を立てている。
亜由美は状況を把握する。私はサラを寝かせてから、力尽きて床に倒れてたんだ。
「……やばい」思わず口走る。
確かあいつに、“一時間で戻る”って言った気がする。
今は何時? 私は、どれくらい寝てた?
鳴り続けるスマートフォンに時刻が表示されている。戦いが終わった時間から計算すると、意識が飛んでいた時間はおそらく十分程度だ。
起きられて良かったと、ほっと胸を撫で下ろす。これで、約束の時間には間に合う。
亜由美は電話に出ることにする。
「はい、亜由美です」相手がハンナだとわかっていたので、英語で言う。
「サラ、どこにいるの!? 今何時だと……って、アユミ?」
「そうだけど」
「サラは?」
「あー」亜由美はベッドの上のサラを見やる。「寝てる」
「えっ……今どこにいるの?」
「私の家」
「はぁっ!?」ハンナの声が裏返る。
亜由美は一瞬逡巡したが、話をでっち上げることにする。
「えっ、いや、今日うちに泊まりに来たいって言ってたから」
「えっ!?」
驚くハンナに合わせ、亜由美も驚くふりをする。
「ちょっと待って、えっ、もしかして、サラから聞いてないの!?」
「聞いてないし……もう……」
「ごめんなさい、みんな知ってるとばかり……」
「サラを起こしてもらえない? さすがにこれは自由が過ぎると思う」
ハンナはご立腹だ。そりゃあそうだろう……私の嘘なんだけど。
無断外泊の冤罪を着せてしまったことで、亜由美はサラに申し訳ない気持ちになる。でも、ここは私が嘘をつき通さなければ。
「いやー、何ていうか、二人で色々と遊んでたんだけど」
「え」
「それでサラ、すっかり疲れちゃったみたいで」
「……あら、まあ」
「何ていうか、気持ちよさそうな寝顔を見てると起こすのが可哀想というか……」
「……あ~、はいはい」
「目を覚ましたら、ちゃんと連絡するように言っとく。そして私からも謝る。ごめんなさい」
「あ、うん、オーケー」ハンナは取り繕うように明るい声を出す。「こっちこそ、お楽しみのところ邪魔しちゃったかな?」
「……ん?」
「気にしないで。サラが起きたら、私から連絡があったことを言っておいて」
「わかった。バイバイ」
通話が終わる。
……何か、変な誤解を招いたような気もするが、まあ、いいか。
実際、今晩に関しては、サラは私の家にいた方が安全だと思うし。
何気なく鼻の下を擦り、その手を見ると凝固した血の塊がこびりついている。
鏡を見ると、顔の下半分全体が赤黒い血糊で覆われている。
すぐに顔を洗って血糊を落とす。そうしていると全身の汚れに我慢ができなくなって、そのまま汗と泥にまみれた服と下着をすべて脱ぎ捨てて、ざっとシャワーで全身を流すと、新しい服に着替える。
冷凍庫の氷をジップロックに入れ、殴られた箇所に当てて冷やす。
それからもう一度、寝ているサラの状態を観察する。といっても、呼吸と脈と、目で見てわかる外傷の確認くらいしかできないが。それでも今のところ、呼吸数と脈拍数は正常で、明らかな内出血や骨折を疑う所見はない。
「ねえ」
ふっと“分身”が現れる。
「うぃ」亜由美は心の中で挨拶をする。
「こんなこと、もうやらないで」“分身”が言う。
「こんなことって?」
「自分の命を、雑に扱うようなこと」
「雑に扱ってへんよ」
「……
「したけど?」
「あなたも、死ぬつもりだったの?」
「それは違う」亜由美は首を横に振る。「死ぬ覚悟はしてたよ。けど、生き残るつもりやったし、生き残れるって踏んでた」
「……じゃあ何で、あんな危険なことを?」
「命を賭けないと、あいつが折れなさそうだったから。ほら、ポーカーでもさ、相手を降ろすために自分のチップを全部突っ込んだりするやん。それと一緒で、“ここで命を危険に晒すなんて割に合わない”って、あいつに思わせたかったわけよ」
「……とにかく」“分身”はため息交じりに言う。「もうあんなことはしないで」
「わかってるよ」亜由美は頷く。
これが片付いたら、もう、“力”使って戦うつもりもないしな。
「う……ん……」
サラが身体を動かす。〈催眠〉が解けつつあるようだ。
亜由美はサラの髪に触れながら、何度か名前を呼びかける。やがてサラは目を覚まして、とろんとした瞳で亜由美を見る。
「……アユミ……?」
「おはよう、サラ」亜由美は微笑んでみせる。
「……ここは……?」
「私の家にようこそ」
サラはぼんやりとしていたが、意識がはっきりするにつれて、少しずつ眠りに落ちる前の状況を思い出したようだ。
「そうだ……あいつは……?!」サラは身体を起こそうとするが、忘れていた苦痛に襲われて、顔を歪める。
「落ち着いて」亜由美はサラの身体をさすってやる。「あいつはここにはいない」
「……戦ったの?」
「戦ったよ。そりゃもう、バッチバチに」
「勝ったの?」
「勝ってない。ギリギリ引き分けに持ち込んだ。本当、あなたの言った通り、“化け物”だったよ」
サラはもう一度身体を起こし、ベッドから足を下ろして座る。
「……私、負けたんだね」俯いたまま呟く。表情は亜由美からは見えない。
「あいつには誰も勝たれんよ」
「あいつら、アユミのこと捕まえようとしてた」
「そうみたいね」
「私が馬鹿なことしたせいで、あんなことになったのに……それでアユミが捕まるなんて、許せなかった」
「別に、サラが責任感じることないよ」
「アユミのことを守らないと、って思ったんだ。でも……結局また、助けられたのは私だった。……ごめんなさい」
「謝ることない」亜由美はサラの隣に腰掛け、肩を撫でる。「私だって、サラに助けられてる。あなたがいなかったら、私は心が折れてた。あなたのおかげで、踏ん張れた」
サラは俯いたまま首を横に振る。
「怪我は大丈夫? どこをやられたの?」亜由美はサラの背中に手を添える。
「もう大丈夫……多分。ボディーを効かされて、動けなくなって、首を絞められて……気づいたら終わってた」
サラは両手で顔を拭う。
「私は、何もできなかった……。私だって超能力者なのに……手も足も出なかった……」
膝の上に置いた両手を、震えるほど固く握る。
「……悔しいよっ……!」
亜由美はサラの背中をさすってやる。
かける言葉が思いつかない。痛かっただろうな。怖かっただろうな。
あの伊関と名乗った超能力者にやられるサラの姿を想像してしまう。この子は、勇敢に、持っている“力”を全て振り絞って伊関に挑んだのだろう。あいつはそんなサラを、一方的に、淡々と、打ちのめしたのだろう。まるでサラの意思や行動に、何の価値もないかのように。
亜由美はそれが自分に起こったことのように思えてきて、内臓を炙られるような屈辱感を感じる。
サラが味わった苦痛を、私は伊関に味わわせてやりたかった。でも、あいつは強すぎて、私は生き延びるので精一杯だった。最後の賭けに失敗していたら、私はこの世界から消え去っていただろう。
でも――賭けには勝った。今のところ。
そのおかげで、サラを避難させることができた。
あとは、私がどうなるかだけだ。