亜由美は両頬を叩いて腰を上げる。
伊関と会うまで、まだ時間がある。それまでどうするか。
会ってからどうなるか、予想したり作戦を立てようにも、頭が満足に働かない。そんなときには、悩んで過ごしても仕方がないし、とりあえず手を動かして、目の前のやれることをやろう。今までもずっとそうやってきた。
不意に立ち上がった亜由美を、サラは不思議そうに見上げる。
「どうしたの?」
「ちょっと、電話をかける。……そうだサラ、シャワー浴びといで」
「えっ?」
「汗と砂まみれで気持ち悪いでしょ」
「そうだけど……待って、まずい」サラは顔色を変える。「家に連絡してない……!」
「お姉さんから電話があったよ。今日はうちに泊まるって言っといた」
「うそ……ごめん、ありがとう。……あー、また怒られる」サラは頭を抱える。
「こっちこそ勝手に話作ってごめん。……まあ、とにかく、汗流しておいで。私の下着貸したげるし」
「いいの?」
「うん、多分サイズ大体一緒だと思うし」
亜由美は衣装ケースからカルバン・クラインのスポーツブラとパンツを掴み取り、サラに渡す。
「……ありがと」サラはそれを受け取り、浴室に向かう。
サラがシャワーを浴びる間、亜由美は作業に取り掛かる。
まずはサラの着ていた服の土埃を落としてから、自分の服と一緒に洗濯乾燥機に入れて、回し始める。そして、砂のついたベッドシーツを剥がして、新しいものに取り替える。フローリングにこびりついた自分の鼻血を、ウェットティッシュで拭き取る。
それからベランダに出て、バイト先の店長に電話をかける。
「おう、亜由美。大丈夫だったか?」
「なんとか。さっきは死ぬかと思いましたけど」
亜由美は答える。嘘は言っていない。
「本当に救急車呼ぼうかと思ったんだぞ? 大事にならなくて良かったよ」
黒木は真剣に心配しているようだった。
亜由美は早退したことを謝り、以前から精神科に通っていたことを明かす。それも、嘘ではない。
「大変だったんだな」店長の康平は、亜由美の説明を受け入れたようだった。
亜由美はもっともらしく話を盛る。
「大学に入ってから、ずっとパニック発作はなかったので、もう大丈夫かなって思ってたんですけどね……。習慣というか、お守り代わりにポケットに頓服を入れるのはずっと続けてて、そのおかげで助かりました。でも、あんな急に来るなんて思ってませんでした」
「今日は急に警察が来たりしたし、そんなのとかも関係あったんじゃないか?」
「そう……なんですかね」
亜由美は内心、関係は大アリだ、と思う。違う意味でだけど。
それから今後のシフトの相談をして、電話を切る。
通話を終える前に、「何かあったら、早めに相談してくれな。遠慮しなくて良いから」と康平は言う。亜由美はそれに礼を言いながら、申し訳なさを感じる。仮病を使うのはこれが初めてだった。できればこんなことは二度としたくない。
亜由美がベランダから屋内に戻ると、ちょうどサラもシャワーを終えたところだった。
「ありがと、さっぱりした」
下着姿で部屋に戻ってきたサラの姿を見て、亜由美は少しどきっとする。
手足はすらりと長くて、ほどよく筋肉がついている。鍛えているのだろう、上半身は女子にしては大きく、それがウエストのくびれにかけてのラインをより美しくしている。お腹は平らで、柔らかそうな肌の表面に、微かに腹筋の陰影が見える。
亜由美自身、スタイルに全く自信がないわけではないのだが、サラの方がずっとカルバン・クラインを着こなしている。同性からみても、魅力的だ。
他人の身体をやたらと見るべきではないのはわかっている。でも、見ないようにと思うと、余計に変に意識をしてしまう。
そんな亜由美の内心を知ってか知らずか、サラはふざけてモデルのようにポーズを取ってみせる。
「元気そうね」亜由美は苦笑する。
「マシにはなった。……まだ何か食べたら吐きそうだけど」サラは心窩部をさする。
「飲み物は飲める?」
「多分」
亜由美はマグカップにぬるめの湯を注ぎ、砂糖と塩、レモンジュースを加えて即席の経口補水液を作り、それをサラに渡す。自分は冷蔵庫に常備してあるレッドブルを一本取り出し、カフェインの錠剤と共に一気に飲み干す。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」亜由美は財布と携帯をポケットに突っ込む。
「どこに?」
「あの、さっき戦ったやつと会ってくる」
サラの顔から表情が消える。
「……どうして?」
「さっき、引き分けたって言ったでしょ? それはいわば一時停戦みたいなもんでさ。これから和平交渉をしないといけない」
「私も、一緒に行く」サラが言う。
「気持ちは嬉しいけど」亜由美は首を横に振る。「ここで待っててほしい。何かあったときに、あなたの安全を守る余裕がない」
「そんな、じゃあ、アユミの安全はどうなるの?」サラは亜由美の前に立つ。「私のせいでこんなことになったのに、どうしてあなたが自分を犠牲にするの?」
「サラのせいじゃない。他人を殺して傷つけたのは、全部私だから」
「一人で抱え込まないでよ。私だって関わったんだ。私一人だけ安全な場所にいるべきじゃない」
「あなたをこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。誰が何と言おうと」
「でも……」
「頼むから言うこと聞いて!!」
亜由美が声を上げると、サラは黙る。亜由美自身も自分の声量に驚く。
「……ごめん」
すぐに謝り、気持ちの余裕を取り戻すために深呼吸をする。
それから亜由美はノートのページを破り、ボールペンでメモを書く。
「もし、私が戻って来なかったら……朝起きたら私はいなくて、このメモが置いてあった、てことにして」
メモの内容はこうだ――昨日はありがとう。用事があるので、先に家を出てる。帰る時は合鍵で鍵を閉めて、郵便受けに入れておいて。
そのメモに合鍵を添えて置いておく。
「そんなの……嫌だ……」
「念のため用意しとくだけだって。きっと大丈夫、ちゃんと戻ってくるから」
「約束して」
「約束する」
じゃあね、と言い、亜由美は自宅を出る。扉を閉める瞬間まで、サラは亜由美のことを見つめていた。
亜由美は歩きながら大きくため息をつく。自然と足取りが重くなる。
戻ってくると約束したが――実際のところ、無事で帰って来れる保証はない。
今回の一連の事件に関して、自分の知っていることはちゃんと話そうと心に決めてはいた。嘘やごまかしが通じる相手とは思えないからだ。
ただ、あの伊関という奴が、それを聞いた上でどう判断するか。
私は他人を傷つけ、命を奪った。どんな理由があったとしても、その事実は揺るがない。それで裁きを受けることになっても、文句を言える立場ではない。
これから、殺人罪で捕まるのかな。それか、その場で処刑されるのかな。独りで、誰にも知られないまま、この世からいなくなるのかな。
でも……私がいなくなったら、サラはどうなる?
たまらない不安を感じる。それから、孤独感。
私と、サラしかいないんだ。
自分以外、誰もサラと自分自身を助けられない。
警察にも、弁護士にも相談できないし、何なら警察は相手側にいる。
私がやるしかない。
震える手を、硬く握りしめる。
生き延びるためには、私が頑張るしかない。
「なあ、“分身”ちゃん」心の中で呼びかける。「あなたも〈
「……作れるかもしれない、けど」“分身”が答える。「今度は何を考えてるの?」
「もし万が一、私がやられるとするやろ。それで、その時点で、もしあなたが活動できたら……〈
「また無茶をしようとしてるの?」
「してないよ。これはあくまでお守りみたいなものだと思って」
「……何のための?」
「ビビらずに、あいつと話し合うためのな」
少し間をおいて、“分身”が応じる。
「うん。わかった。任せて」
亜由美は両頬を叩き、気合をいれる。
行こう。この騒ぎに、ケリをつけよう。