亜由美は下北沢の街を通り抜け、高架下の工事用地を目指す。
土曜日の夜で、まだそこまで遅くない時間ということもあり、バーやクラブの多いエリアは人で賑わっている。亜由美はその中を、気配を消しながら歩く。不織布のマスクで口元を覆い、顔の傷が目立たないように隠す。
高架下に近づくにつれて、飲食店は減り、喧騒は遠くなる。人通りも少なく、男女のグループが何組か歩道を歩いているくらいだ。街外れの、よくある風景。先刻ここで殺し合いが行われていたことは、誰も知らない。想像もできないだろう。
フェンスを跳び越えて工事用地に入ると、その中央に人影が二つ浮かんでいる。山名と名乗った自称刑事と、伊関杏子だ。戦いの瞬間が脳裏に蘇り、亜由美は緊張で胸郭が締め上げられるように感じる。
「お、来た来た」山名が笑う。
伊関は何も言わない。“矢”を受けた左眼を眼帯で覆い、右眼で亜由美を見つめている。
亜由美も伊関の眼を見つめ返す。澄んでいるが、深すぎて底が見えない——まるで洞窟に広がる地底湖のような瞳だと感じる。
睨み合いから生まれた沈黙を、亜由美が破る。
「場所を変えませんか?」
そう提案する。この場所で超能力者二人に対峙するのは、再度戦闘になる可能性を考えると危険だ。まだ衆人環視の中で話し合う方が、攻撃への抑止力になるだろう。そしてそれは、二人にも悪い話ではないはずだ。
「俺はそれでもいいよ」山名は言う。
伊関は少し考え込むそぶりを見せてから、首を縦に振る。
「わかりました。どこにしますか?」
三人は下北沢駅から数分歩いたところにあるカフェに場所を移す。
そこはワンフロアで、パーティーの二次会で使えるくらいの広さだった。淡いオレンジ色の照明の下に、木製のソファやテーブルが並んでいる。ソファにはリネン生地に包まれたクリーム色のクッションが無造作に置かれていた。
自分たちを除いて、客は女子会グループが一組と、本を読んでいるのが一人。
屋外のテラスには他の客がいなかったので、三人はそこで席に着くことにする。
「では……約束通り、全て話して頂けますね?」伊関は亜由美を見る。
亜由美はまっすぐ見つめ返して言う。「その前に、あの子には手を出さないと約束して欲しい」
伊関は頷く。「約束は守る」
「それから、二人が警察関係者である証拠も見せて。文書がなくても、何かあるでしょ」
「これが証拠だよ」山名はそう言い、縦書きの楷書で印刷された名刺を亜由美に渡す。伊関も探偵事務所の名刺を出す。
「電話かけていいですか?」亜由美は訊く。
山名は手を差し伸べ、どうぞ、とジェスチャーをする。
亜由美は山名の名刺に書かれた警視庁の部署を確認してから、スマートフォンで番号を調べて電話をかけ、山名雄介という警察官の存在を尋ねる。少し経ってから、所属していると答えが返ってくる。
亜由美は二人の顔を交互に見る。まだ確証は持てないが、公権力に仕える形で動いているのは、嘘ではないのだろう。だとするとやはり、サラと私の処遇は、この話し合いにかかってくることになる。
「今度はあなたが話す番です」伊関が言う。
「わかってます」
亜由美は話し始める。
「まずは、今仲の件ですね。あいつが私のバイト先で女性に睡眠薬を盛ろうとしたのを阻止したのが、ことの発端でした。逆恨みした今仲は、私に〈催眠〉をかけようとして失敗した。その“気配”を察知して助けに来たのが、あの子です」
「名前は?」
「サラ・アーヴィン。それで今仲は、サラに追われて逃走した。……でも、あろうことかその翌日に、手下を引き連れて再び店のそばに現れた。私を心配して店に様子を見に来たサラと二人で今仲を捕まえ、私が手下もろとも記憶を消して昏倒させました」
「では、あれは正当防衛だった?」伊関が訊く。
「自分ではそのつもりです」亜由美は頷く。「相手は超能力者で、“力”なしでは私は身を守れなかった。放っておけば私以外の店のスタッフにも危害が及ぶかもしれなかった。あいつらを倒して記憶を消す以外に、確実に自分や仲間を守る方法が思いつかなかった」
それから伊関は事実関係についての質問をして、亜由美がそれに答える。事件の場所や時刻、今仲の情報をどうやって入手したかなどについて、亜由美は簡潔に説明したが、伊関はそれ以上掘り下げようとする様子をみせなかった。
山名の方は何も発言せず、伊関を見守るように座っているだけだ。おそらく捜査の主力は伊関の方で、山名はサブの扱いなのだろう。超能力者としての実力的にも、きっとそうだ。
「今仲が死んだことも知っている?」
伊関の質問に亜由美は正直に答えることにする。
「はい。“力”を使って、病院のカルテを覗いてました。彼の状態が気になってはいたので。それで、知りました」
「殺した超能力者を知っていますか?」
「いいえ。あいつが死んだ日の午後、病棟に様子を見に行ったんですけど、私の知らない“痕跡”でした。……あなた達は殺した奴のこと知ってるんですか?」
「それをあなたが知る必要は、ない」伊関は言う。
「ないことないでしょう」亜由美は譲らない。「仮に殺しの犯人が今仲の関係者だとして、そいつが次に狙うのは私とサラでしょ、普通に考えたら。関係大ありですよ。そいつは何者なんですか?」
少し考えてから、伊関は答える。
「今仲を殺したのは、武政瞳。……あなたが殺した武政陸斗の、妹です」
亜由美は自問する——私が、殺した?
……ああ、あいつか。
〈オルタナティブ・レイヤー〉に消える大男の姿が、亜由美の脳裏によぎる。決して良い気持ちにはならない。しかも、そいつに家族がいるなんて、できれば知りたくなかった。
「その瞳って人は、今どこにいるんですか?」亜由美が訊く。
伊関は答えない。
「私や友達が、まだそいつに狙われる可能性はあるんですか?」
黙ったままの伊関を見て、亜由美は瞳なる人物の運命を悟る。
「ああ……そういう感じ?」
「他に選択肢はなかった」伊関は表情を変えずに言う。「彼女は女性に〈催眠〉をかけ、風俗店で働かせていた。それに店の客から金を奪い、殺してもいた。そんな奴は、野放しにできない。かといって、警察や司法ではそいつを管理できない」
亜由美はゆっくりと頷く。なるほど、こいつは警察官プラス裁判官プラス死刑執行人ってことか。
いつのまにか両手は冷や汗で濡れている。改めて、私の供述が自分自身とサラの運命を握っているということを実感する。私やサラにも、刑が宣告されるかどうか、私にかかっている。
ただ――今のところ、感触は悪くない。私の罪を追及するというより、探究心から聞いているように感じる。まあ、それも希望的観測かもしれないが。
だがもし仮に、私のことも処刑するつもりなら――そのときは、こいつも道連れにするまでだ。
「あなたは武政陸斗を殺した。何故ですか?」伊関が訊く。
「あいつがサラを襲ったからです」亜由美はその場面を思い出し、胸のむかつきを覚える。「あいつは、今仲を昏倒させた超能力者を探していた。“力”を使っていたサラを見つけて、何か知ってないか尋問するつもりだったんじゃないかと思います。私はその“気配”に気づき、サラを助けに向かった。……最初は見逃そうとしたんですよ。二度と私たちに近づかないという条件で。そしたら、あいつはサラをビルから投げ落とした。そういうことをする奴なら……この世から消えてもらわない限り、サラと私には安全は訪れない。だから……そういうことです」
伊関は黙ったまま、考え込むように手元を見つめる。
亜由美は次に来る質問に身構える。今、自分は殺人の自白をした。それについて、これからもっと追及されるだろう。目の前に座っているのが“裁判官”なら、私は“弁護士”にならなければならない。
「一つ質問させてください」伊関が口を開く。「武政陸斗の死体はどこで処分しましたか?」
「あいつの身体は、もうこの世界には存在しません」
伊関はその意味を理解したようだ。
「……あの、“別世界”に消した?」
「そうです。もうこちらの世界から、あいつの死体を見つけ出すことはできない」
「そうですか……」
伊関はそう呟くと、もう一度、手元に視線を落とす。
亜由美にはその時間が途方もなく長く感じられる。まるで伊関に合わせて、時間の流れも動きを止めたようだった。
「わかりました」
不意に伊関が言葉を発する。そして、隣に座る山名と目くばせをしてから、亜由美の方に向き直る。
「こちらでも調査は継続しますが……差し当たり、あなたの話を信じることにしようと思います」
亜由美は反応せず、伊関の様子を伺う。次に彼女が何を言うかで、運命が決まる。
「あなたの今回の件は、正当な理由があっての行為だと判断します」
それが何を意味するか、亜由美はすぐに理解できなかった。
「罪に問うつもりはない、ということです」伊関が付け足す。
「いや……」亜由美は思わず笑ってしまう。「私が言うのもおかしいけど……いいんですか、あなたが決めて?」
「本来は駄目だと思いますよ」伊関はあっさりと認める。「こんな決め方は理想的ではない。でも、超能力が絡むと、通常の行政や司法の手続きは実効性を失う。“力”は証拠を残さないから起訴できない。逮捕、勾留しても、逃げ出そうと思えば逃げ出せる。抑止力にならないんです。だから、非公式ですけど、警察の依頼を受けた私が決める。私には超能力者を抑止する力があるから」
「隣に警察の人いますけど」亜由美は山名に視線を向ける。
「俺もそれでいいと思ってるよ」山名は同じ座った姿勢のまま言い、それから杏子に視線を向ける。「なあ、先に条件の話をしようか」
「わかってます」杏子はそう言い、亜由美の目を見る。
「罪に問わない、と言いましたが、それには条件があります。……あなたとサラさんの超能力の使用を、私の管理下に置かせてもらいます」
管理、と言われて、亜由美はいい気分はしない。
「心配しなくても、襲われない限り超能力なんか使わないですよ」
「それでも、です。使おうが使うまいが、そのことを私は把握しておく必要がある。正直に言うと、あなた達が多少好き勝手に“力”を使おうが、別にいいんです。私としては、社会の安全が守られていればそれ以上は気にしない。ただ、何か超能力絡みのトラブルが起きて、それを私が知らない、というのを避けたいだけです」
亜由美がどう返そうか思いつく前に、伊関は畳みかける。
「この条件が飲めないなら、私はもう一度あなたを倒すために戦う。今度は停戦は、ない。さっきあなたは命を賭けたけど、私もこの仕事に命を賭けてる。私たちが戦えば、二人とも破滅するし、巻き添えも生じるでしょう。それでも私は最後まで戦いますよ。どうしますか? 流血を望みますか?」
伊関は亜由美を見据える。その目を見ていると、まるで光の届かない深淵を覗き込むような、思わず尻込みする感覚が迫ってくる。
今度は亜由美がチキンレースを仕掛けられる形になった。そして今回は、私が降りるしかなさそうだ。
勝負に乗れば、全てを失う。それに比べると、彼女の要求を受け入れる方がましに思える。後はもう少し、話を詰められれば。
「“管理”の具体的な内容はなんですか?」亜由美は訊く。「例えば、応召義務みたいに、あなた方の命令で私やサラが超能力を使わなければならない、みたいなことがある?」
伊関は首を横に振る。
「そういった強制力を働かせることは、今回の取引では考えていないです。それよりはむしろ、あなたの行ったことを免責するための、形の上での措置だと考えてください。理由があるとはいえ、あなたは人を殺した。それを、何もせずに解放するのはさすがに筋が通らない。なので、“管理下に置く”という形をとる。それくらいに思ってもらえれば」
亜由美はその発言を吟味する。
もし伊関の言ったことが本当なら、悪い話ではない。実質的な“手打ち”みたいなものだ。
もし逆にそれが詭弁だとする。その場合、今後“管理”と称してこちらを利用しようとしてくるかもしれないが、向こうに何かしら強制力があるわけでもない。無理な命令をされたら、そのときもう一度伊関と交渉すればいい。交渉が決裂すれば戦うことになるだろうが、それは相手も避けたいはずだから、今回ほど危険な事態にはならないはずだ。
結局のところ、現時点では、伊関の提案を受け入れるのが妥当だろう。
「……流血は望まない」亜由美は答える。「わかりましたよ」
「それでは、これで和平は成立したと、考えていいですね?」
「……いいですよ、それで」
伊関は両肩を引き上げ、息を吐きながらストンと落とす。山名は椅子の背もたれに寄りかかり、大きく体を反らせて伸びをする。
亜由美は汗が首筋を伝うのを感じる。吐く息が細かく震える。そしてようやく自分がどれほど神経を張り詰めていたか気づく。
緊張の糸が切れて、亜由美は思わず笑ってしまう。
「いや本当……伊関さん、めちゃくちゃ強かったですよ」なぜかそんな台詞が口をついて出る。
「いえいえ、そんなそんな……」伊関は肩をすくめ、首を横に振る。「私も、神前さんと戦ってたら、命がいくつあっても足りないなと思っていました」
「私も、あなたとは二度とやりたくない」亜由美は苦笑する。
この瞬間――自分でも不思議に思うが――ある種の爽快感のようなものを覚える。伊関のことは決して好きではないが、超能力者としては恐ろしく優秀だということは身をもって知っている。そんな人間に、自分の実力を認められたように感じられて、それは悪い気はしなかった。