交渉が成立し、争いは終わった。
この空間を覆っていた、断裂する寸前まで引き絞られた弓のような緊張感が少しずつ緩んでいくのを、亜由美は肌で感じる。
夜の気温は涼しかった。屋外のテラス席を通り過ぎる風が素肌を撫で、頬を、首筋を、手のひらを冷やす。今になって、自分が汗に濡れていることに気づく。
「じゃ、俺の用は済んだし、行くわ」不意に山名が言い、席を立つ。「事件もあらかた解決したし、神前さんとも話がついたし。あとは二人で積もる話でもどうぞ」
無駄のない所作で颯爽と去っていく山名の後ろ姿を見て、亜由美は呆気に取られる。
まじか。普通、先に帰るとか、あるか?
向かいに座っている伊関は、ため息をついて俯く。
「いつもあんな感じなんですか?」亜由美は訊く。
「まあ……マイペースな人です」伊関は肩をすくめる。
亜由美は一度椅子に座り直す。
さっきまでとは別の種類の緊張感が漂うのがわかる。
警察の男が真っ先に“一抜け”するのを二人で見送る形になったことで、何というか、立ち去るタイミングを逃してしまった。
その結果、仲が良くない、そもそも面識すらない、何ならさっきまで殺しあっていた奴と、こんな感じでカフェのテラス席で二人きり。
気まずさを感じずにいられようか。
「あの……」伊関がおずおずと声をかける。「サラさんは、今どこにいますか?」
「私の家で休ませてます」亜由美は答える。
「……大丈夫でしたか?」
「今のところは、多分」
伊関は俯き、「そうですか」と言う。
亜由美にとっては、それだけで良かった。
それ以上何か言われたら、それが何であっても——たとえ、サラを気にかけるような言葉であっても——頭に血が昇っていただろう。
「神前さん」伊関は話題を変える。「“力”はいつから使えるようになったんですか?」
「はい?」
「いえ……すごく、“力”に習熟した印象を受けたので」
「……これは、尋問の続き?」
「いえ、そういうわけではないんですが……」
伊関は亜由美の様子を窺うが、返答がないとわかると、軽く息を吐いて、話を続ける。
「私は、生まれたときから人と違う感覚を持っていました。目で見なくても、どこに何があるのか、誰がいるのかが分かったんです。
「でも、周りの人は、そんなことは当然知らなかった。……私が全然他人と目を合わせないし、ずっとぼんやりしているように見えてたみたいで、変人扱いでした。
「物心がついて、他人が自分をどんなふうに見ているのか少しずつ分かるようになって、他人には自分の持つ“感覚”がないことに気づいてからは、普通の人間のふりを一生懸命してました。……“力”を使うよりも、そっちの方が大変だった」
まるで独白のようにぼそぼそと話す伊関に、亜由美は相槌を打つ。
「それは……きつかったでしょうね」
この会話には乗り気ではなかった。そのまま今度は自分の話をする流れになるような気がして、それが嫌だった。ただ、黙殺するのも悪いような気がしたのだ。
「すみませんね、訊かれてもないのに変な話して」伊関はそう言って肩をすくめる。「他人にこんな話をしたことはなかったんですけど。……相手が超能力者なら、話してもいいかなと思って。……まあ、でも、適当に聞き流してください」
「……こっちこそ、ノリが悪くてすいません」
謝る亜由美を見て、伊関は首を横に振る。変化の乏しい伊関の表情が、少しだけ和らいでいるような気がした。
知らない間に屋内の客は皆帰ったらしく、店内にいるのは亜由美と伊関の二人だけになっていた。
スマートフォンを一目確認してから、伊関が言う。
「私たちも、帰りますか」
「そうしますか」亜由美が頷く。
それから、注文したものの一口も飲んでいなかったエスプレッソコーヒーを喉に流し込む。程よく冷めたエスプレッソは、きりっとした苦味で口の中がリフレッシュされる感じがあって、悪くなかった。
「じゃあ、最後に、決めたことを確認しましょうか」
伊関がまとめに入る。
「まず、神前さん、あなたとサラさんが今回やったことは、不問にします。そして、あなたとサラさんの超能力の使用を、私の管理下に置かせてもらう。……まあ、便宜上ですけど……」
「そこなんですけど」
亜由美が話を遮る。
「どうしました?」伊関は亜由美の眼を見る。
「追加で少し、お願いしたいことがあるんですけど」
伊関と話しながら、ずっと考えていたこと。
少しでもサラを危険から遠ざけるために、私にできること。
亜由美の提案を聞いた伊関は、軽く肩をすくめて答える。
「……まあ、それくらいなら、別に構わないですけど」