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 2019年5月26日 未明



 暗闇の中。目を開けた亜由美は、自分を眠りから呼び戻したものは何か考える。

 声が聞こえたような気がする。

「ん……サラ?」呼びかけようとしたが、喉が掠れて声にならなかった。

 隣で横になっているサラの身体に腕を回して、その温かさと呼吸を感じる。反応はない。眠っているようだった。

 声が聞こえたと思ったのは、ただの気のせいか。それか、忘れられた夢の残響音みたいなものか。 

 自分ももう一度寝ようと思ったその時、サラの声がした。今度は確実だった。

 最初は呻き声のように聞こえた。

「サラ?」亜由美は囁き声で呼びかける。「具合悪いの?」

 再びサラは言葉を発する。今度はより明瞭に聞こえる。


逃げてラン


 どきり、とする。

「サラ?」亜由美は耳元で呼びかけながら、サラの身体を揺する。「ちょっと、大丈夫?」

「逃げて……逃げて……」

「サラ!」肩を叩きながら呼びかける。「どうしたん!? ねえ!」

 ハッ、と息をのんでサラが飛び起きる。

「大丈夫、サラ? しんどくない?」

「……アユミ?」

「ちょっと、いったん電気付けるな」

 亜由美は起き上がり、手探りでベッドサイドライトを付ける。その明かりを頼りに、部屋のシーリングライトのスイッチを入れると、白い光が部屋を満たす。


 サラはベッドの上に座り、両目を擦っている。つやのある前髪が、額や頬に張り付いている。汗をかいているようだった。

「ちょっと落ち着いた?」出来る限り優しい声色で、亜由美はサラに声をかける。自分の動悸がまだ治まりきっていないことを悟られないように。

「うん……」サラは深呼吸する。「……何か……変な夢見ちゃったみたい。でも、もう大丈夫」

「どっか体調悪いとかじゃない?」

「大丈夫だよ。ありがとう」

 そう言ってサラは微笑んで見せる。

 それを聞いて、亜由美は胸を撫でおろす。


 口がからからに乾いていることに気づく。水を取り出そうと冷蔵庫に向かうと、後ろからサラに声をかけられる。

「ねえ、私、さっき何か言ってなかった?」

「えっ?」

「私、何か寝言を言ってなかったかなって」

「いや、聞いてないけどな」

 亜由美はそう答える。

 その話をするのが怖かった。

 ――逃げて。

 サラが譫言のように繰り返すのが、亜由美には怖くてたまらなかった。それが夢の中の台詞だったとして、彼女がどんな夢を見ていたのか考えるのも、怖かった。

「どうする、また寝る?」亜由美はサラに訊く。

「……目が冴えちゃった」

「私も。……何か温かいもんでも飲む?」

 サラは微笑んで頷く。




 亜由美は二人分のカモミールティーを用意しながら、サラの方を見る。ベッドに腰かけたまま、サラは自分の足元を見下ろしていたが、そこを見ているわけではなさそうだった。まるで心はここではないどこか別の隔絶された場所にあって、その中で自分自身と向き合っているかのようだった。


「昨日のこと考えてたんだけど」サラが不意に言葉を発する。「あの、イセキとかいう奴に言われたこと」

「力を使うな、っていう話?」

「うん。……アユミは、本当にそれで良かったの?」

「そう思ってるけど。何で?」

「アユミは“力”が好きじゃないの?」

 少し考えてから、亜由美は答える。

「正直、好きだよ。でも、“力”は私のことが好きじゃなかったみたい」

「そうかな」サラは自嘲気味に笑いながら言う。「アユミは“力”に愛されてると思うけど。私と違って」

「そんなことない」

「あんなに強いのに?」

「そういう問題じゃない」亜由美はきっぱりと言う。「“力”は誰のことも愛さない。傷つけるだけで。“力”はもう使うべきじゃないし、伊関に使うなって言われたのはむしろ良かったと思うよ」

 サラはやれやれ、といったジェスチャーをする。

「大金持ちに、お金は人を幸せにしないって説教されてる気分」

 嫌味を聞き流す余裕は、今の亜由美にはなかった。

「何イライラしてるの? 思い通りにならないからって、私に当たられても困る」

 サラはきっ、と亜由美を睨む。

「何もできなくて、ただ守られるだけなのが、どんなに惨めかわかる? 自分に力がないせいで、理不尽な目に遭わされて、悔しいって思ったことはないの? やるべきことをやれなかった自分を責めたことなんか、きっとアユミはないんだよね。だって強くて、何でもできてしまうから」


 サラの言葉は真っ直ぐに亜由美の心に突き刺さる。深々と突き刺さりすぎて、痛みを通り越して何かの冗談のように感じる。

 瞬間的に頭に昇った血はすぐに引き、喉まで出かかった罵声は冷や汗になって首筋を伝う。感情が麻痺して、どう反応するべきかも、反応するべきかどうかもわからなくなる。

 サラは確実に亜由美の地雷を踏み抜いていたはずだった。ただ、あまりに見事に踏みすぎて、地雷側が引いてしまったような感じだ。


 亜由美が黙っていると、サラは潤んだ目を両手で覆い、項垂れる。

「ごめん、アユミ。そんなこと言うつもりじゃなかった。本当に、ごめんなさい。……どうしちゃったんだろ、私。最低だよね」

 亜由美はカモミールティーのマグカップを一つサラに渡し、自分もベッドに腰掛ける。サラのことを最低だとは思わないし、責める気持ちもない。この数往復の言葉の応酬については、何の評価も判断もせずに流すことにする。

「まあ……最悪な一日やったからね」

「本当そうだよ……。クソみたいな一日だった」

「サラ、言葉づかい」

「うるさいなあ」そう言いながら、サラは笑ってしまう。


 サラの笑顔を見て、亜由美はずっと探していたものを見つけたような気持ちになる。よく笑う子だから、しょっちゅう笑顔も見ていたはずなのに、すごく久しぶりにサラの笑った顔を見たような気がする。

「まあ、でも、お互い生き残れて良かったんじゃない?」

 軽い感じにしつつ、でも本心から亜由美はそう言う。生き残れて良かったし、生きててくれてありがとう。怪我したのも、命を賭けたのも、全部報われたと思う。

「そうだよね。……ありがとうね、アユミ」

「別に大したことしてないよ」

「大好き」

 サラは亜由美の頬にキスをする。

 それから、二人で口づけ合う。

 クソみたいだった一日が満たされていく。




 静かに眠るサラの横で、亜由美は天井を眺める。

 感覚でわかる。これはもう朝まで寝られないやつだ。

 自分が伊関に向けて言った言葉が、脳内で自動再生される。

 ――あの子をこの世界から遠ざけたい。これ以上、危険な目に遭わせたくない。

 私はそう言った。

 サラと出会った時から、そう考えていたつもりだった。

 なのに、自分がやってきたことは何だ? あの子と一緒に、“力”を使って、街を駆け回って、高いところに登って、騒いで。楽しさに流されていただけじゃないのか。


 ずっとそうだった。一貫性がなくて、流されて判断を誤って、大事なものを失ってきた。

 亜由美は身体を起こし、ベッドから足を下ろす。暗闇に慣れた目で、ローテーブルに置いたマグカップを見つけて手を伸ばす。ティーバッグを入れっぱなしにしていたカモミールティーは濃くて冷たかった。


 脳内再生はサラの声に切り替わる。

 ――やるべきことをやれなかった自分を責めたことなんか、きっとアユミはないんだよね。

 言われた瞬間フリーズしたのは、結果的には良かったのだと思う。少なくとも、あの場でブチ切れて言い返すよりは良かった。サラはあそこで感情を吐き出す必要があったと思うし、私が仕組んだ嘘も彼女が傷ついた原因の一つである以上、私はサラの苛立ちや怒りを受け止める責任があったと思う。

 それが、今になって、暗い感情を呼び起こす。

 胸ぐらを掴んで、叫び散らしたくなる。お前に何がわかるんだ、と。

 実際はそんなことはしない。サラに感情をぶつけるのは間違っている。

 私だって辛かったんだ――なんて、辛い目に遭う原因を自分で作っておいて、言うことじゃないと思う。


 私は“力”にハマったけど、結局何も得られなかった。失うばかりで。

 守れるだけの力を持っていたはずなのに……私は何も守れなかった!

 恭太郎――私の兄ちゃんも。

 翔ちゃん――私の親友も。

 やるべきことをやれなかった自分を責めたことなんか、数えきれないほどある。覚醒しているときだけでは足りないのか、夢の中でもそれを繰り返すんだ。

 うなされていたと、母から聞いたことを思い出す。眠っていながら、兄ちゃん、翔ちゃんと繰り返し呼んでいた、と。

 夢の中では、私は15歳に戻っていて、その時のことをそのまま再体験しているのだろう――感じ方も、心の動きも、全て。それを現実に持ち越さないのは、せめてもの救いなのだろう。


 ふと、サラが見たという“変な夢”のことを考える。

 逃げてラン――そう英語で呟いていた。

 その夢が、疎隔化できていない過去の出来事の記憶が立ち現れたものだと仮定すると……それはアメリカでの出来事ということになるのか?

 さっきあの子が感情を剥き出しにしたとき、やり場のない悔しさを私にぶつけてきているのだと思っていた。でも、本当にそれだけだったのか? 

 サラの言葉が、少し違う意味を持っているような気がしてくる。

 ――何もできなくて、ただ守られるだけなのが、どんなに惨めかわかる? 

 ――自分に力がないせいで、理不尽な目に遭わされて、悔しいって思ったことはないの?

 サラは、アメリカで何か――今でも執拗に再体験を迫るような何かを経験したんだろうか?


 亜由美は頭の奥にぎりぎりと痛みを感じる。脳が限界を迎えているような感覚。今日はこれ以上、何も考えられない。

 眠れないなりに、極力脳を休ませるように、亜由美はベッドに横たわり目を閉じる。

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