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 杏子が自宅に辿り着いたとき、空はうっすらと明るく、雲の輪郭が捉えられるくらいになっていた。

 すぐにシャワーを浴び、スウェットに着替えると、ベッドに倒れ込む。

 荷物は全て、勤め先の事務所に置いてきてある。ついさっきまで、そこで報告書をまとめていた。もちろん公的な書類ではないが、石井刑事やその上の人間は目を通す。それに、将来超能力が絡む事件に関わることになる人も読むことになるだろう。彼らが参照して役に立つようなものにする必要がある。だから、神経が焼き切れそうな脳に鞭を打って、パソコンと向き合っていた。


 これで、今回の件はあらかた片付いた。犯罪者は減って、欲しい情報は手に入った。追っていた二人――神前亜由美に、サラ・アーヴィン――彼女たちが、治安を乱すような存在ではなさそうだということも分かった。それに、味方の命は一つも失っていない。

 仕事としては、上手くいった方だと思う。

 それなのに、何だろう、この、悔いが残る感じは。




「良い経験になったんじゃないか」

 事務所で、瀬崎にそう言われたのを杏子は思い出す。

「俺は超能力のことはわからんが、自分と同じくらい強い奴とぶつかったのは初めてだったんだろう?」

「そうですね。……自分の力不足を思い知らされました」杏子はそう答えた。

 実際今まで、他人の“力”を脅威に感じたことはなかった。他の超能力者に遅れをとることなど、イメージしたことさえなかった。

 だからこそ、今回、神前を制圧できなかったことはショックだったし、慢心を挫かれた――そもそも、自分がどこか慢心していたことにさえ、今になってようやく気づいた次第だ。

 だが、そのことで悔いが残っているわけではない。そんな気がしていた。


「俺もな」瀬崎は話し始めた。「石井ほどじゃないが、昔柔道をやっていてな。中学校の時は、地方大会で入賞したりしたんだよ。周りの中では俺が一番強かった。で、高校に上がったとき、同じ学年で入ってきたのが、中学総体にも出てたとかいう、めちゃくちゃに強いやつでな。まあ強かったよ。そうなってくると、こっちも負けちゃいられなくなる。練習して練習して、上達すれば、今度はあっちも負けじと練習して、周りのやつらも必死でついて来て。結局、俺らの学年は、高校始まって以来一番の成績を残した。……まあ、何が言いたいかっていうと、強い奴は強い奴と出会うと、もっと強くなれるってことだ」

「なんか……暑苦しい話ですね」

 伊関がそうコメントすると、瀬崎は大笑いした。深夜の疲労感と高揚感がそうさせている部分もあったのかもしれない。


 ライバルがどうとかで燃える性格ではない。今の自分の超能力スキルではいけない、ということは痛感しているが、だからといって“打倒・神前”を目標にするつもりは別にない。というか、あいつとはもう二度と戦いたくない。

 でも、その話に引っかかる部分もあった。


 神前とサラの二人を思い出す。

 サラの方は、おそらく初心者だろう。〈身体強化〉時のスピードに慣れていなかったし、“力”はやや不安定で、無駄な力みがあった。

 でも、才能の片鱗は感じた。一瞬こちらに影響を与えるくらいに、彼女の〈念動力〉――かどうかは確証が持てないが――は威力があった。そして、意志が強かった。心を折るつもりで腹を殴ったのに、這いつくばりながらでも、気を失う瞬間まで食らいついてきた。

 アユミに近づくな――彼女がそう言ったのを思い出した。

 神前の方は、間違いなく経験者で、化け物じみた強さだった。それでも私の打撃は彼女に届いたし、普通ならその時点で決着はついていたはずだ。なのに、彼女はそこで終わらなかった。

 立ち上がろうとするとき、神前はずっとサラの方を見ていたのではないか。今になって、そんな気がする。

 お互いに、相手のことを想った結果、肉体と精神の限界を超えた。


 何となく、瀬崎の話のどこに引っかかったのかが見えてきた。悔いが残る感覚の正体も、分かった気がした。

 私には、そんな仲間がいない。

 今まで気にも留めていなかったその事実が、急に重く感じられるようになってきていたのだ。




 スマートフォンの画面が光る。颯介からのメッセージだった。

 神前との話し合いが終わった時点で、一連の事件の顛末について報告していた。今仲への傷害、武政陸斗の殺害に至る経緯。それを成し遂げた人物――神前亜由美について。颯介の車を投げ飛ばした超能力者――警察官・山名についても。おそらく、確認しました、的な返信だろう。

 メッセージには「今話せる?」とだけ書かれていた。


 通話アプリで発信すると、すぐに颯介は出た。

「おう。送ってくれたやつ読んだよ、お疲れ様だったな」颯介は少し声を張っていて、遠くの人に呼びかけているようだった。周囲の雑然とした物音が一緒に入ってくる。

「こんな時間に起きてたんだ」

「遊んでた」

「今どこにいるの?」

「台湾のクラブ」

 襲撃されてから身を隠すとは聞いたが、国外まで出ていたとは。……それにしては、逃げ隠れしている感じはあまりないが。


「なんか、元気そうで良かった。そっちは大丈夫だった?」

「ああ、車の処理は知り合いに頼んだし、仕事もまあ何とか調整できそうだし」

「もっとビビってるのかと思った」

 杏子がそう言うと、颯介は大声で笑う。

「こっちにはいきなり襲ってくる超能力者はいないからな。まあでも、山名とか言ったっけ? そんな脅威じゃないのなら、早いとこ日本に戻ろうかな」

「車投げられた時に颯介くんが反撃してたら、勝てたかもよ」

「そりゃ結果論だろ? 俺はリスクの高すぎる勝負をするくらいなら逃げるのを選ぶ。そもそも超能力者同士で喧嘩するなんて嫌に決まってるだろ。お前くらいだぞ、自分から超能力者を殴りにいく物好きなんて」

「趣味で人殴ってるみたいに言わないでよ」

 電話の向こう側の颯介と一緒に、杏子は笑う。笑うと、不必要な力が抜けていく感じがする。このやり取りが不謹慎なのはわかる。でもその不謹慎さも引っくるめて、今は笑えてしまう。


 自分の仕事を茶化されるのは、あまり不快な感じはしない。

 茶化されて怒る人は、それだけ自分のやっていることが他人より優れていて、高潔で、尊いと思っていて、かつ自分自身がその活動に依っているのだと思う。杏子は自分の仕事が他人より優れているとは別に思わないし、高潔だとも尊いとも思わない。他の超能力者を消すという自分の活動は、褒められたものではないと思っているし、それに依存しないように心がけている。

 意識的にそうしている。そうしなければ危ないから。


「今回の奴は殴り返してきたんだよな? 神前、だっけ?」

「うん。あいつはやばかった」

「見てみたかったなあ、杏子が手こずってるとこ」

「笑い事じゃないよ、本当に危なかったんだから」

 杏子は神前との戦いを思い出す。彼女の、魂ごと刺すような眼差し。自在に形を変えて襲いかかってくるオーロラのような光。異空間に引きずり込まれた時の、濁流に溺れるような恐怖。

 あの“矢”で撃たれた左胸と左目に残る違和感は少しずつ薄まってきて、ようやく自分の身体に戻ってきたような気がする。


「ただ、俺らが想像してたような奴じゃなかったみたいだな」颯介が言う。「お前は多分、殺し屋みたいなのを想像してて、俺は何となく、バットマンみたいな悪党狩りを想像してた。でも実際は、自分と友達の身を守るために戦っただけだった、てことか」

「少なくとも今回に関してはね。……過去はどうだったかわからないけど。もう少し調べてみることにしてる」

「また本人に会って訊いてみれば?」

「……必要なら考えるけど、まず本心は語らないと思う」

「ついでに仕事も手伝ってもらうとか」

「別に一人でも回せてる」

 杏子はそう答える。だが一瞬――自分でもどうしてかわからないが――神前に背中を預ける自分自身の姿を想像してしまう。

 もしそうなれば、頼りになることこの上ないだろう。

 ただ、そんな未来が訪れないのはわかっている。


「それに彼女、もう超能力は使いたくないって」

「……それは、トラブルに巻き込まれるのが嫌だから?」

「そんなところだろうと思う。彼女自身というより、むしろ友達の方を心配してるみたいだった」

「サラ・アーヴィンだっけ」

「そうそう」

 杏子の意見は、神前とは異なっていた。

 正直、常識を超えた力がいつも手元にあるのに、全く使わずに生きていくことが可能だとは到底思えない。

 銃が手元にあれば、何か撃ってみたくなるのが人間だ。

 それをさせないために、法律や規制や罰がある。神前は私に、その役目を任せたかったのだろう。サラが“力”を使うのを抑止するために。

 だが――これは、何の根拠もない、杏子自身の直感だが――あの二人からは、自分と似た匂いがする。

 暴力の匂い。

 いくら超能力を使いたくなくても、私が禁止したとしても、こっちの世界からは逃れられない。そんな気がする。

 それならば、“力”と向き合い、技術を磨き、備えた方が良いのではないか。

 これが、杏子自身の意見だ。

 でも、今は、神前の選択を尊重したいと思う。

 私は私。彼女らは彼女ら。別々の道を行くんだ。


 外で鳥が鳴いたのが聞こえた気がする。

 遮光カーテンの向こう側は、朝になっているのだろう。

 颯介との会話で一旦は上昇した覚醒度が、再び急激に下がっていく。

「そろそろ寝ようかな」杏子は言う。

「好きなだけ寝ちゃいなよ。俺はもうちょっと飲むけど」

「颯介くんは、いつこっちに帰ってくるの?」

「今日? 明日? には飛行機を取ろうかな」

「戻ってきたら、食事でも行く?」

 杏子が言うと、少しの間沈黙が流れる。

「……お前、なんか変わった?」颯介は怪訝そうに訊く。

「いや、別に、手伝ってくれたお礼ができたら、と思っただけで。……どうかな?」

「喜んで」

 颯介の声が、いつもより紳士的に聞こえた。


 通話を終えてから、自分は変わったのかな、と杏子は考える。

 確かに、以前なら、仕事以外で他人と会おうとは考えなかったと思う。

 何でだろう。急に、仲間的なものが、自分も欲しくなったのだろうか。

 颯介がそういう、背中を預けられる存在になるかというと、少し違う気もする。彼は実利で動くし、自分の身の安全を最優先にする。それを承知の上で、協力関係を築いていたわけだけれども。

 まあ、でも、ともかく、もう少し他人と関わってみようかな。



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