2019年5月26日 朝
山名雄介が指定された場所に到着すると、その男は既にそこにいた。
城南島海浜公園。レンガで敷かれた道を抜けた先の、海に沿った歩道の柵に両腕を乗せて、対岸のコンテナターミナルを眺めている。
黒のトラックスーツを着て、フードを被った後ろ姿は、まるでそこだけ本来あった空間が切り取られたかのように見える。空や海の青、雲の白やグレー、これらのどれとも調和しない。どこか超現実的な絵画を幻視させる。
「お疲れっす」
近づく山名に気づくと、そう言って振り返る。
顔はない。フードの内側は一切の光が遮られたような深い影になっている。
間違いなく“力”の効果だろう、と山名は考えている。だがそれが、感覚の媒体となる光の向きや周波数などに作用しているのか、山名自身の知覚に作用しているのかは、判断がつかない。
オートチューンのエフェクトがかかったような声も同じだ。変えられているのはそいつの声か、自分の聴覚か、判別できない。
そいつに関する全てにおいて、感覚というものが信用できなくなる。そんな異質さがあった。
「待たせた?」
山名がそう訊くと、男はフードを横に振る。
「徹夜した朝に海を眺めるのが好きなんすよ」
「ずっとここにいたの?」
「明け方まで作業やら実験やらやってて、それからこっちに来て、日の出の時間からずっと見てましたね」
フードの男は再び海の方向を見やる。その姿と雰囲気も相まって、海の向こう側に立ち並ぶコンテナクレーンが巨大なモニュメント群のように見えてくる。
「仕事の話なんすけど」フードの男は海を眺めながら言う。「報告、読ませてもらいました。本当、お疲れ様でした」
「どうも。……確認だけど、金はちゃんと回収できた?」
山名が確認したのは、武政兄妹のグループの金についてだ。横野がそれを盗んで逃亡しようと目論みたが、長倉に裏切られた。その金を奪った長倉も染川に捕えられ、拷問にかけられていたところだったが、染川も長倉も、一緒にいた連中もまとめて山名が始末した。長倉を殺す前に金の隠し場所を〈催眠〉で聞き出し、フードの男に伝えておいたのだった。
「はい、バッチリっす。山名さんから教えてもらった場所にちゃんとありました。約束の取り分は送金したんすけど……確認してもらえました?」
昨日の騒動のせいで、そこまで気が回っていなかった。スマートフォンで確認すると、確かに振り込まれている。
「毎度あり」
山名は軽くスマートフォンを掲げる。
「残念だったなあ……武政さん」フードの男はため息をつく。
「知り合い?」
「はい。武政兄の方の仕事を手伝ったことがあるんすよ。詳しくは言えないっすけど、詐欺の実働部隊をSNSでリクルートすんのを簡単にするような、仕組みづくりをやってて。そん時は、超能力は全く関係なかったし、向こうは俺に“力”があるのは知らなかったと思うんですけど……こっちの話でも、俺の提案に興味持ってくれるんじゃないかなと思ってたんすけどね。兄貴も妹も、できる奴って感じでしたし」
武政兄妹について、警察で話題になっているのを山名は聞いたことがなかった。二人が死んでから、グループの関係者が失踪したり逮捕されたりする中で、ようやく存在が認知され始めたと言ってもいい。神前亜由美が今仲を病院送りにして、伊関杏子がその捜査に乗り出すまで、あの二人は公権力の目を掻い潜りながら、巧妙に勢力を伸ばしていたのだ。
フードの男が惜しい人材だというのも、理解できる。
「いやでも、山名さんも大変でしたよね。神前さん、でしたっけ」
「ああ……あれはエグかったな」
男に言われ、山名は苦笑いする。まったく、とんでもない奴だった。バーで聞き込みをして、あいつの正体を突き止めた時はラッキーだと思ったのだが……それで半殺しにされるくらいなら、全部伊関にやらせておけばよかった。
「いや、マジで強いっぽいっすよね」
機械音声のように加工されたフード男の声のトーンが、少し上がった気がした。人間、好きな話題になるとどうしても気分が高揚する。この男は根っからの超能力者で、超能力について考えるのが大好きなのだろうと、山名は思う。
「実は、神前さんと伊関さんが戦った現場、見に行ったんすよ」男は続ける。「“気配”を調べてたんですけど……あの二人、〈
〈
人間が“力”にアクセスできる唯一の窓口である〈
「使った時間はそんなに長くなさそうですけどね。もし、戦いの中で編み出したんだとしたら、めっちゃセンスあると思います。……まあでも、本物の超能力者としてはスタートラインに立ったところっすね」
「あの二人とも、それを使えんの?」
「そこまでは感じ取れなかったんですけど……〈
「ひえ~」山名は身震いの仕草をする。
「いやいや」フード男は苦笑いをする。「山名さんだって、使えるじゃないですか」
「まだ、慣れてないけどな」
「俺が教えて、できるようになったじゃないですか。逆に、何で使わなかったんですか?」
「いや……気づくのが遅れて、普通に間に合わなかった」
山名はそのときの状況を思い出しただけで、本気で寒気を覚える。
「へえ……山名さんでも、そんなことあるんすね」
「俺も信じられなかったけど、それだけあいつは“気配”を消すのが巧かった。……賭けてもいいけど、神前亜由美ってやつは武政を殺す前にも色々と殺ってるよ。人の襲い方ってものを知ってる」
男はフードの内側の闇を山名に向ける。そこにどんな感情が潜んでいるのか、山名にはわからない。神前のことをどう考えているか。こっちのことをどう思っているのか。見当もつかない。無から何かを推測することは難しい。
「二人……神前さんと伊関さんは、俺の話に興味持ってくれそうっすかね」
男の質問に山名は答える。
「まあ、ないだろうね。伊関は俺らがやってるようなことを取り締まる側だし、神前は面倒ごとに関わりたくないオーラを出してる」
「そうか……いや、でも、欲しいっすよね……」
フードの男は、口があるであろう位置を指で触る。
「口説きたいならどうぞ。俺は遠慮するけど」
「……まあ、まずは調べてみるところからですかね、二人のこと」
山名は、この男の執着心の強さを知っている。
彼は、本気であの二人を仲間に引き入れる方法を考えるのだろう。
こいつは、何事においても、一度そうしたいと思ったことは決して曲げないタイプだ。まるで、自分ができると思ったことは、絶対に達成できる道程が用意されていると信じているように。
どこか狂っているが、嫌いじゃない。
多分だが、何かを成し遂げる人間は、多かれ少なかれこういう狂い方をしているのだろうと思う。
「じゃあ、俺、そろそろ帰りますわ」
フードの男は歩道の柵から手を離し、軽く伸びをする。
「寝に帰る感じ?」
「いや、気分が冴えてるので、今日はこのまま仕事の続きっすね」
「あんま無理すんなよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫っす。少しでも早く、多くのことを解明したいんで」
この男の原動力は何なのか、と山名は思う。半分は好奇心で、残り半分は遊び心、というところか。
良心や倫理観は、あったとしても、二の次。その点では、自分も他人のことを言えたものではないが。
「俺は世の中をひっくり返したいんですよ」
フードの男が言う。彼がこの話をするのを、山名は何回か聞いた事がある。それはまるで、自分自身を鼓舞しているかのようだった。
「〈
「何に使えるのか、もだよな」山名が言葉を挟む。
「もちろんっす。例えば、ほら」フードの男は対岸のコンテナの群れを指さす。「あの貨物を全部〈
早口で、まるでラップのフローのように熱く語るフードの男を山名は観察する。
周囲の環境や色彩と調和することを拒むような、黒。
まるで、彼の立つその場所だけ、遠い未来の時空と混線しているかのように見える。
こいつは確実に未来を見ている、と山名は思う。
それはこいつにしか見えていない。
俺にはその未来が、天国か地獄かもわからない。
それでも俺はそんなこいつに賭けた。
正義だのモラルだの、今の俺にはもはや何の値打ちもないものを差し出して。
俺の全てだったものを取り返すために。