2019年5月30日
「なんか、お忍びでデートしてる芸能人みたいだな」
マスクにキャップ姿の亜由美を見つけた佐山は、そう言って笑う。
亜由美はおどけて、パパラッチから顔を隠す真似をする。
その日最後の授業が終わり、ちょうど教室を出るところだった。そのまま佐山と少し歩きながら雑談する流れになる。
「口、大丈夫?」佐山が訊く。
「うん、薬塗ってたら大分良くなったよ」
亜由美は答える。伊関と戦ったときに唇を切った痕を隠すために、この一週間マスクをしていたのだが、周りには口唇ヘルペスになったと説明していた。
「ストレスが発症の原因になるとかいうけど、何かあったりしたの?」
「いやー、別に?」
亜由美は首をかしげる。
実際はストレスがあったどころの騒ぎではない。文字通り、生きるか死ぬかのところにいた。
一つでも対応を間違えていたら、私は伊関に殺されていただろう。そう考えると、殴られて唇の軽い裂傷を負ったくらいで済んだのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
「そうだ、この間はお店教えてくれてありがとう」
亜由美は話題を変える。サラの家にお邪魔したときの手土産をどこで買うか、佐山に相談に乗ってもらっていた。
「あー、あそこな。ガレットもフィナンシェも美味しいでしょ?」
「うん、好評だった。ありがとうね」
「何だっけ、ホームパーティー?」
「まあ、そんな感じ。バイト先に来た留学生の子と仲良くなって、誘われたんよ」
「へえー。すごい英語の勉強になったんじゃない?」
「なった。普段使わない口の筋肉めっちゃ使ったからね」
「いいよなあ、そういうの。俺も留学生の友達作ろっかなー。たまにやってるでしょ、国際交流パーティーみたいなの。ああいうの行ってみようかな」
「留学生の彼女作ったらいいじゃん」
「確かに……よーし英語頑張ろ!」
佐山は白い歯を見せて屈託なく笑う。
亜由美はそんな他愛ない会話の中から佐山の歩んできた道が垣間見えるような気がする。それと自分自身が辿った道との隔たりを思うと、ため息が出そうになる。
大勢を傷つけて、ここまで来た。でももうこれ以上この道に沿っては進まない。超能力性犯罪者・今仲に出くわして始まった一連のゴタゴタが片付いた今、同じことを続ける理由がない。
普通に生きよう――戦いの後、私はサラにそう言った。そのとき同時に、自分自身にも言い聞かせていた。
そしてその翌日から今日まで、実際に普通に生活してきた。
5月26日は日曜日で、その日は夕方までサラと自宅でだらだらした後、彼女を家まで送り、無断外泊になったことを一緒に謝った。
5月27日は、肉体的にも精神的にも疲れが溜まりきっていたので、絶対に落とせない授業だけ顔を出して、後は家に篭っていた。
5月28日、大学が終わってから予備校バイト。授業の前と後で、生徒からの質問を受けた。いつもより優しく対応できたと思う。
5月29日、ちょっとずつ体調が戻ってきたので、普通に授業に出られた。
そして本日、5月30日。この後は《Footprints》でバイト。