「小うるさいのがいるな」颯介は斜め後ろにちらりと視線を向け、顔をしかめる。
「初めての“気配”だね。通り二つ向こうくらいかな」杏子が言う。
「行かなくていいのか?」
「移動してるだけみたいだし、今は様子を見とく。近いうちに挨拶はしておこうかと思うけど、別に急ぎじゃないかな」
「メシ優先?」
「メシ優先」
テーブルを挟んで向かい合う二人は、顔を見合わせてふっと笑う。
この状況に杏子は新鮮さを感じる。いつもは大体颯介が運転席で、自分が助手席で、同じ方向を向いて話していた。こうやって向き合って話すのは初めてだし、実は一緒に食事をするのも初めてだ。
「美味いね」スレートプレートに載せられた前菜を平らげた颯介が言う。「いい店をチョイスしたな」
「うん。お店の写真の雰囲気で決めたんだけど、ここにして良かった」
杏子が予約したのは、新宿の繁華街の、普通なら素通りするような路地の奥にある小さなフレンチレストランだった。人気らしく、平日なのに席は全て埋まっていた。前菜を口にした時点で、人気なのに納得がいった。
「そうだ、これ見てみろよ」
颯介が不意にiPhoneの画面を杏子に向ける。
そこに写っている人物を見た杏子は口に含んだ白ワインを吹き出しそうになる。
神前亜由美だ。……ビール缶を頭に乗せて馬鹿みたいな表情をしている点を除けば、あの時出会った人物の特徴と一致している。
「……何これ?」
「神前のこと調べてたらさ、出てきたんだよ」颯介はにやにや笑っている。
「これは、彼女のインスタグラムか何か?」
「いや、本人のじゃない。神前はインスタもフェイスブックもアカウントは持ってるけど、ほとんど更新しない。たまに友達が撮った写真に、こんな感じで写りこんでるくらいだな。これなんかは高校時代のツレとバーベキューしたときの写真らしい」
「……この、鼻に刺さってるのは……割り箸?」
「何だろうな……グリッシーニに見えなくもない。拡大すると画像が粗くなってわかりにくいな」
杏子は小さくため息をつく。これに苦戦したかと思うと、何だか腑に落ちない気持ちになる。
「でもこんなアホそうなのに、めちゃくちゃ勉強できるんだろ?」颯介が言う。
「東大理三だよね」
「杏子も調べたんだ?」
「ちょっとだけだけどね」
「実際に神前と会ってみてどうだったか、すげえ気になるんだけど」
杏子は思い出しながら答える。
「やっぱり賢いんだろうなっていうのは感じた。けど、優等生ってタイプには見えなかったな」
「優等生かどうかと賢いかどうかはやっぱ違うんじゃね?」颯介は笑いながら言う。「ほら、東大出た医者なんか全員優等生なんだろうけど、俺みたいな探偵に不倫現場押さえられる奴だっているしな」
「あ、私もあったよ。奥さんの方が現場に乗り込むって息巻いて、面倒くさかったな」
それから二人で探偵業の体験談なんかについて語り合ううちに、食事のコースは進み、メインの肉料理が運ばれてくる。
「しかし、あれだな」会話の流れが途切れたタイミングで、颯介が言う。「杏子と真面目じゃない話することなかったよな」
「確かに、仕事以外で話をしたことってなかったね」
杏子は赤ワインを一口飲む。そもそも颯介に限らず、他人と仕事以外で会話をしたのはいつ以来だろうか。
「雑談とか好きじゃないタイプだって思ってたよ」
颯介に言われ、少し考えてから杏子は答える。
「好きじゃないっていうか、得意じゃないかも」
「得意じゃない?」
「何ていうか……目的がはっきりしてたら、もっと上手く話せるなとは思う」
「目的ね」
「情報を交換したり、説得したり。口先で誤魔化したり、詭弁で強引に話を通したりとかも、やろうと思えばできるけど、ただ話すのが目的ってなると、どうしようってなる」
「これまでどうやってた? 雑談する機会くらいあっただろ」
「基本、聞き役に徹してた。それっぽく話合わせたり、質問したり」
「そのやり方は一つの正解じゃね?」
「取り調べっぽいって言われたことあるけどね」
そう言って杏子は苦笑する。颯介もそれに合わせるように笑う。
「それはいつの話?」
「中学生くらいだったかな」
「てか、杏子ってどんな学生だったの?」
「え?」
「学校は通ってたんだよな?」
「うん、高校までね。高校卒業してすぐに今のところで働き始めたから。……まあ、目立たない学生だったよ」
「部活とかしてたの?」
「美術部」
「美術! 絵描いたりとか?」
「私は彫刻の方が好きだった。木彫りとか、粘土で人物像つくったりとか」
「格好良いじゃん」
「本当はダンス部にも興味あったんだけど……ほら、身体を使うと“あれ”がバレちゃうかもしれなかったから」
「ああ、まあ確かにな」
二人でくすりと笑う。“あれ”が超能力を指すことを颯介はすぐに察したようだ。さすがに他に大勢客がいるところで超能力について口にするのは躊躇われる。
「ていうかさ」笑い終わって颯介が言う。「さっきから普通に喋れてるじゃん」
「……そう?」
「うん。雑談ってこういう感じのやつだろ? 普通にできてるよ」
「そうかな」
今までにない角度から褒められたような気がして、杏子は少し照れ臭くなる。
颯介は杏子の目を見て言う。
「杏子はさ、自分で思ってるような奴じゃないと思うよ」
「え、急にどうしたの」
「いや、お前さ、“自分みたいな奴なんて……”って心のどこかで思ってるだろ? “自分みたいな半端者は、日陰でゴミ掃除してるくらいがちょうど良いんです”みたいなさ。でも俺はお前のこと、そんな奴じゃないと思ってる」
杏子は颯介の言葉の真意をはかりかねる。
会話の面白い、面白くない、というレベルの話じゃないのは見当がつく。
心当たりはある。“自分なんて”という言葉は、心臓の音くらい身近なところにずっとあった気がする。当たり前すぎて、指摘されなければ気づかないほどに。
自分に自信がないわけじゃない。できること、達成してきたことはたくさんあるし、それにプライドだって多少は持ってる。でも、その下地にはやっぱり、“自分なんて”がある。そういうのが、コミュニケーションの言葉以外の部分なんかで周りに漏れ伝わって、卑屈な印象を与えてしまっているのかもしれない。
でも――“自分なんて”がないと、自分はきっと駄目になる。
自分を戒めるべき理由がある。それをやっているおかげで、私は辛うじて人間でいられる。
「颯介くんは、優しいんだね」
杏子はそれだけ答える。続く言葉――気持ちは嬉しいけど、私は多分変われないし、変わるべきじゃない――は、心に秘めておく。
颯介はふっと静かに笑う。口に出さなかった言葉まで伝わったのかどうかは、わからない。
食事を終えて店を出た後、颯介は杏子に声をかける。
「この後はどうする?」
「別に、予定はないけど」
「じゃあ、少し歩こうや」颯介は親指で背後の通りを指す。「また雑談の練習でもしながらさ」