「あっけなかった」杏子は再び語り始める。「人ひとりの命を奪うのが、こんな簡単に済むんだって、恐ろしくなった。そいつのやったことは聞いてたし、そいつが法で裁けない極悪人だということもわかってた。そいつと向かい合って、生かしておくべきじゃないと思ったし、そいつを殺すことには一定の“正義”があると思った……実際に殺すまでは。でも、手を下してしまうと、そいつが化け物なら私も同じ化け物なんじゃないかという思いが拭い切れなくなった。
「そのときから、何が“正義”なのかよくわからなくなった。“正義とは何か”って、色んな人が色んな理屈を言ってるのは本とか読んでて知ってたけど、内心の直観的な部分では、何もピンとこなくなった。
「仕事の時大体いつも、周りに説明してる言い方がある――“特別な力を持った、法で裁けない人間の悪事を防ぐには、こうするしかない”って。そうやって、建前では自分のやってることを正当化してるわけだけど……それが完全に間違ってるとは思わないけど、心の底では自分のやってることが正しいのかどうかわかってないよ、正直。……まあ、仕事だからやるんだけど、ね」
杏子はそこまで話すと、軽く胸を反らし、肩を回して、ふっと息を吐く。そうやって、話している間に身体に蓄積した緊張を呼吸とともに開放する。
颯介は口を開かない。でも、言葉で表現される以外の部分で、杏子は感じる。彼が自分の語りを聞いてくれていることを。
「叔父のことだけど……その事件の直後に癌が見つかった。あの臓器ブローカーと交戦したときに怪我をしたらしくて、骨がどうもなってないか確かめるくらいのつもりで受診したら、骨転移が見つかって、全身を精査したら末期の肺がんだった。お医者さんは叔父が動けてることを不思議がってた。
「延命治療は望まなくて、その同じ年のうちに叔父は亡くなった。聞きたいこと、話したいこと、話すべきことはたくさんあったはずなのに……満足に話せなかった。もともと口下手なのに、これからもう二度と話せなくなると思うと、何をどう言えばいいのか余計にわからなくなった。躊躇してるうちに、叔父は話すこともできなくなった。
「最後に喋ったとき、叔父に言われた――『程々に善い奴を目指せ。七対三で善が多いくらいになれたら文句なしだ』って。今でもそれを理解しているかと言われると微妙だけど、聞いた当初はもっとわからなかった。“善”とか言われても、“正義”並みに漠然としてるし。でも……一定の比率で“悪”の存在を認めるという考え方は、すっと受け入れられた。より現実に即してる気がした。だって私自身も、世界も、百パーセント“善”になるなんてあり得ないし」
ふーむ、と颯介は鼻を鳴らす。
「それはでも、ただ単に『善人を目指せ』っていうよりも難しいことが要求されてない?」
颯介の言葉に杏子は頷く。
「私もそう思う。叔父は『ちょっとくらい悪さしても良い』的な意味で言ったわけじゃない――いや、まあ、あの人はふざけんのが好きなところがあったから、多少そういう意味もあったのかもしれないけど……」
言いながら杏子はつい苦笑いしてしまう。颯介もつられるように笑う。
「それはよくて」杏子は仕切り直す。「善悪の間の濃淡を認めると、一気に考えないといけないことが増える。それは“どれくらい”善くて、“どれくらい”悪いのか、“どういうところが”善くて、“どういうところが”悪いのか、とか。ずっと悩むことが要求される。叔父もそういう意味で言ったんじゃないかって思ってる」
「悩む、ね」颯介が言う。「杏子の得意技だな」
杏子は肩をすくめる。
「別に悩むことが多いからといって得意とは限らないけど。……まあ、でも、ピュアな“善人”を目指してたら、それこそ“正義は我にあり”的な怖い感じになってたかもと思うと、自分はグレーなところで悩んでる方が良いなとは思う」
颯介は言葉を発さずに頷く。
「そんなわけで、私はこの仕事を続けていくつもりでいる。本音を言うとやっぱり人殺すのは正当化しようがないと思う。どんな極悪人でも外道でも殺すのは“悪”だし、それをやった事実は永遠に残る。でも、誰かが手を汚してやらないと世の中が収拾つかなくなるような仕事があって、それが私にしかできないのなら、私が手を汚すことによる“悪”を受け入れようと思う。……この考え方が危険なのはわかってる。少しでも気を抜いたら、坂道を滑っていくみたいに極端な方に行ってしまう。だから、悩んだり迷ったりしながら仕事していく。悩んだり迷ったりするのが私にとってのブレーキだから」
話し終えると、杏子は息をつく。自分でも、これほど言葉が出てくるとは思わなかった。こんなにたくさん誰かに話したのは、思いを表現したのは、人生でも初めてかもしれない。
「お前とこういう話ができて良かったよ」
颯介が言う。
「ううん……こちらこそ、聞いてもらえて良かった」
「でも、ひとつ言うと、あんまり一人で抱え込むなよ、とは思う。ブレーキペダルに足を乗せてんのはお前だけど、周り見てるのはお前だけじゃないからな」
「わかってるよ。……ありがとう」
反射的に“わかってる”と言ったが、本当の意味では、わかっていなかったのかもしれないと杏子は思う。
ずっと気にかけていてくれていた。
颯介には、私に寄り添う言葉をかける準備ができていた。
私に、その言葉を受け止める準備ができていなかった。
颯介に対してもそうだったし、きっと、瀬崎社長や石井刑事に対しても同じだ。
自分自身の中に、“自分は周りと違う”という変な自意識のようなものを抱え込んでいたんだと思う。そしてそれは多分、死ぬまで抱えなければならないものだとも思う。ただ、今回の件で、その自意識と少し距離感を変えることを学べたのは、良かった。
颯介は缶コーヒーを飲み干す。語りに集中していた杏子は、ようやく自分の缶コーヒーのタブを開ける。
「颯介くんの話も聞かせてよ」杏子が言う。
「俺の話?」
「うん」
「したことなかったっけ?」
「……初めて会ったときの話?」
「そうそう」
「あれは、“事件”に関係することだけだったでしょ」
「そっか、そんだけだったか」
そう言って、颯介は視線を上げて遠くを見やる。その視線はビル群を通り越して過去に向かっているかのようだ。
杏子も思い出す。あの時、颯介はある事件の“容疑者”だった。こうして一緒に仕事をするようになるとは、その時点では考えもしなかった。
「わかった、俺の話をしよう」颯介は言う。「何から聞きたい?」
ちょうどその時、“気配”が変わる。
レストランにいた時から断続的に感じていた、新顔の“気配”だった。ただ移動に使っていた時とは違う。より攻撃的なニュアンスがある。
杏子と颯介は同時に反応する。
「行くよな」
颯介が言う。
「行く」
杏子はコーヒーを一気に飲み干して空き缶をゴミ箱に投げ込む。
柵から降りて、数歩助走をつけてアスファルトを蹴る。次の瞬間にはビルの上空に躍り出ている。
“気配”の発信源を見つける。
仕事の時間だ。