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 杏子はふぅ、と息をついて、放心状態で転がる男を見下ろす。

 黒のパーカーに、迷彩柄のカーゴパンツ。左頬にはくっきりと手のひらの形。被っていたマスクは、さっきの張り手で空中を一回転した拍子に顔から外れ、傍に転がっている。

「芸術点の高いビンタだったな」後ろで見ていた颯介が笑いながらコメントする。

 杏子は振り向いて軽くサムズアップしてから、男に向き直る。

 ここからが本番だ。この件をどう処理するか。


「話せますか?」

 杏子は男に声をかける。男は黙ったまま涙で潤んだ目で杏子を見ている。

「名前、教えてもらってもいいですか?」

「……青野」

「下の名前は?」

「……純人」

 青野と名乗った男はゆっくりと身体を起こして座る。

「身分がわかるものはありますか?」

 青野は嫌々な態度で学生証を出す。杏子は写真と本人の顔が一致しているのを確かめる。


「青野さん、何をしてたのか事情を聞いてもいいですか?」

「別に何も」青野は吐き捨てるように言う。「悪党に軽く焼きを入れてただけですよ」

「悪党? あっちの人のことですか?」

 杏子はさっき自分が助けた方の男を見る。男はへたり込んだまま目の前の出来事が信じられないような顔をしている。

「あなたの名前は?」

「……椿っす」

「正田だろ」青野が口を挟む。

「あなたに聞いてない」杏子はそれを制し、椿にもう一度聞く。「本名は正田で合ってるんですか?」

「はい……正田順平っす」

「正田さんは、何をしたんですか?」

「いえっ、俺は何も……」

「俺が全部言いますよ」青野が口を挟む。

「違うんです! こいつが言うのは全部デタラメなんですよ!」

「お前は黙れよ!」

「黙らねえよ! 証拠もねえのに人を犯罪者呼ばわりしやがって――」

「二人とも静かにしなさい!」

 杏子が声を張る。青野も正田もまだ何か言いたそうだったが、睨みを効かされて黙り、視線を落とす。

 ああ、面倒くさい――杏子はため息をつく。ここは幼稚園の教室か何かか。


「正田さんは、何をしたんですか?」

「俺は何もしてないんです」正田はぼつぼつと語り出す。「こいつにいきなりここに拉致されて……。俺が女の子に借金背負わせて、風俗で働かせて、暴力振るったっつって、自白しろっつって脅されたんです」

 次に杏子は青野に訊く。

「青野さんは、どうして正田さんがそんなことをしたと考えたんですか?」

「女の子から、メッセージがあったんですよ。助けて欲しいって」

「青野さんにですか? その女の人は知り合い?」

「いえ。SNSで依頼を受けてます」

「依頼? ……そもそも青野さんって何してる人なんですか?」

 青野が答えようとする前に、あっ、と颯介が声を上げる。

「見つけたぞ。これじゃね?」

 颯介のiPhoneの画面には、Tiktok 上で #VigilanteInKabukicho のハッシュタグを検索した結果が表示されている。スクロールしているうちに、何となく掴めてくる。

 私刑人ヴィジランテか。信念が強い感じの奴だったら嫌だな。話が面倒くさそうだ。


「青野さん」杏子はTiktokの画面を見せる。「もしかして、これがあなたですか?」

「……そうだよ」青野は答える。「お前らとやってることは一緒だろ?」

 杏子はその問答には乗らないようにする。

「とりあえず、事実関係を明らかにしていきましょうか」

「お前ら警察って言ったよな? 警察が何もしないから、ストーカーもDV野郎も、俺が分からせてやってるんだろ。てか逆に、俺が仕事してる間お前らは何してたんだ?」

「事実関係の確認が先です」杏子はぴしゃりと言う。「今回は誰からの依頼だったんですか?」

「それは言えない。依頼人の安全にも関わるから」

「裏は取ったんですか?」

「えっ?」

「え、じゃなくて、裏取り」

「……えっ?」

 おいおいおいおい――杏子は頭を抱えたくなる。

「青野さん……訴えを聞いて、それが本当かどうか確かめたりしないんですか?」

「……ストーカー狩りのときとかは、実際にストーキングしてるとこを押さえて捕まえてますけど」

「いえ、今回の話をしてるんです」

「……じゃあ、この人が嘘ついてるって言うんですか?」

 青野は反論するが、視線を合わさない。何となく旗色が悪くなっているのは感じているが謝るわけにはいかない、と顔に書いているようだ。


 杏子は痺れを切らす。

「ちょっとその人とのメッセージ履歴見せてください」

「断る。そんなことできるわけ――」

「次は右の頬を張り倒しますか?」

 青野は渋々といった様子でスマートフォンを取り出し、差し出す。

 依頼人とのDMのやり取りには、確かにさっき言われていたような内容が書いてある。

 杏子は依頼人のアカウントを表示させて、それを正田に見せる。

 青野は顔色を変える。

「お前、何見せてんだ!?」

「黙って。……正田さん、この女性に見覚えはありますか?」


 正田は画面を見ると顔を歪め、うぇっ、と声を漏らす。

「こいつ……うちの店出禁にした奴です」

「出禁?」杏子が聞き直す。

「はい……金払いは良かったんすけど、ヘルプで入ってくれた新人に暴言吐くし、他の客と揉めるしで、大変だったっすよ。出禁にしてから今度はストーカーみたいになって、警察にも相談してたんですけど。最後に見たのは、ちょっと前っすかね、二階のベランダまで登ってきて俺の部屋に入ろうとしてきたときっすね……もう急いで引っ越しましたよ」

「お前こそ、証拠あんのかよ」青野が口を挟む。

「あるよ」正田が応じる。「店での問題行動とか、録音も録画もしてるよ。……てかお前、こんな奴の虚言フカシを真に受けて暴力振るうとか、マジで終わってるぞ」

「見せてもらってもいいですか?」

 杏子が訊くと、正田は自分のスマートフォンを取り出す。

「これに入ってます。一応、弁護士にも提出してます」

 杏子は颯介と一緒に動画や音声のデータを何件かチェックする。例の依頼人の振る舞いは、動画で見ているだけで、こっちまで居心地が悪くなるようなものだった。ベランダ侵入時の動画も見せてもらったが、何というか、恐怖映像だった。

「ちなみにこの人、仕事は?」杏子は正田に訊く。

「はっきり聞いてはないですけど、パパ活らしいっすよ。港区の金持ちのオッサンに貢がせるやつ。俺にはアレのどこが良いのか全然わからんすけどね。貢ぐ奴の気が知れないっすわ」


 ふぅ、と杏子は息をつく。

 状況が掴めてきた。ホストをしている正田の常連客で、素行の悪い女性がいた。その人が店を出禁にされて、正田に逆恨みをした。そして私刑人ヴィジランテの存在を知り、自分の被害をでっち上げて訴え、報復を依頼した。うっかり屋の私刑人ヴィジランテ・青野はそれを信じ込み、正田を襲った。

 まあ、正式な捜査ではないし、こんなもので良いか。必要なら〈催眠〉で聞き出すことも考えたが、そこまでしなくても大丈夫だろう。

 ふと青野を見ると、座ったまま項垂れている。さっきまでの威勢は完全に失い、半分くらいに縮んだように見える。

「正田さん、協力ありがとうございます。……本当に災難でしたね」

 杏子の言葉に、正田は力無く笑う。

「後は私達で何とかするので、帰って休んで下さい」

「そうしたいんすけど、この後仕事っす……」

「じゃあ……お仕事頑張って下さい。……颯介くん、正田さんのこと、頼める?」

「了解。……じゃあ、下降りましょうか」

 颯介に支えられながら、気の毒な正田は屋上を後にする。

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