2019年5月31日
午前中の授業が終わる。
教室を抜け出した亜由美は、キャンパスの中にある公園に向かって歩く。同じクラスの子がいれば、流れで一緒に食事に行くことが多いのだが、この日は周りにクラスメイトはいなかったので、一人でゆっくり昼食をとることにする。
矢内原公園のベンチに腰を下ろし、弁当を広げる。今朝五時前に目が覚めてしまい、思い立って作ったものだ。
煮付けた魚と白米を頬張りながら、今日はサラをどこに連れて行こうかと考える。東京のデートスポットを頭の中でリストアップするが、どれもピンと来ない。そういう場所よりは、普通にカラオケとかダーツとかボーリングで遊ぶ方がいいかもしれない……。
「神前亜由美さん」
名前を呼ばれて、考え事が遮られる。
ゆっくりと歩いてくるその声の主をちらりと横目で見る。背の高い若い男だった。フェードカットにボストングラス、オーバーサイズTシャツにチェーンネックレス、ジャージパンツに高そうなスニーカー。
男は数歩離れたところで立ち止まり、言葉を発さずに亜由美を見下ろす。
「……誰さんですか?」
「庵原颯介」男は名乗る。
「庵原さん……って何の人ですか?」
「伊関杏子の同業者って言ったら通じるか?」
庵原と名乗る男は微かに“気配”を放ってみせる。
「知らないですね」
亜由美は肩をすくめる。
「いや、神前さんも
庵原はニヤリと笑う。
「いや、私
亜由美も庵原に笑い返す。
すぐに振り向いて隣を見る。
「何座ってるんですか」
亜由美の横に庵原が腰掛けている。
同時に、さっきまで目の前にいた庵原の“幻覚”は消えてなくなっている。
「やっぱ
庵原は驚いた表情を見せて、笑う。
亜由美は聞こえるように舌打ちする。
「いつ気づいた?」
亜由美はその質問を無視しようかとも考えたが、答えることにする。
「一瞬“気配”出したでしょ。あそこで私の五感をジャックして、立っている自分の姿を“幻覚”に置き換えた。違いますか?」
「いや、正解だよ。……凄いな。初見で見破ったのはお前で三人目だ」
庵原は満足げな表情を浮かべている。
「伊関さんから聞いたんですか、私のこと?」
「まあな。それで、あいつと互角にやり合った奴の顔を一度拝んでみたくなったんだ」
「私がもう、
「今仲の一件からずっと、あんたは降りかかってくる災難を払い除けるためだけに“力”を使ってた。それ以前はどうだったかは知らんけどな」
「何ですか、その言い方?」
「で、全部解決したから、
亜由美は颯介の目を見る。
「私の顔を見にきたって、嘘ですよね」
「嘘じゃないよ。ちゃんとした理由
「やっぱり他にあるんですね」
颯介は一度背中を伸ばして姿勢を整える。纏っている雰囲気が微かに変わり、緊張感が生まれる。
「手伝ってもらいたいことがある」
亜由美は黙ったまま颯介の様子を観察する。さっきまでの笑みは消えている。
「お前、杏子と戦ったとき、あいつを“別世界”的なところに連れ込んだだろ? ……それと同じやつが、新宿で発生した」
「いつですか?」亜由美が訊く。
「いつからあるのかはわからない。昨日の夜、俺と杏子で見つけた」
「誰か戦った痕跡は?」
「感じなかった」
「場所は具体的に、新宿のどこですか?」
「《赤荻第二ビル》っていう雑居ビル。今は廃墟になってる」
庵原はiPhoneを取り出し、画像を見せる。
「そのビルの中の、どこですか?」
「そこまではわからない。中には入ってないからな」
「見せてもらえますか?」
亜由美は庵原のiPhoneを手にすると食い入るように画像を見る。
気づかない間に、心の中で何かのスイッチが入っていた。
画像を拡大して、目を凝らす。ビルの輪郭。壁面のテクスチャ。全ての窓――。
「ここ」亜由美は最上階の窓の一つを指差す。「光ってますけど、おかしくないですか?」
庵原が画面を覗き込む。
「これは……反射してるわけではなさそうだし……ノイズかな?」
「それからここと……あと、ここも」
亜由美はスクリーンを次々に指差す。
光源も、反射するものもない、本来光るはずのない場所。そこにデジタルカメラは光を検出している。庵原の言う通り、確かにノイズのように見える。長時間の露光や高感度での撮影でノイズが発生することは聞いたことがある。ただ、この写真では、窓の中だけにノイズが発生している。
亜由美はそこに引っかかりを感じる。このノイズの分布は、偶然のものなのか。
あるいは――ノイズの原因となるような何かが、ビルの中に存在している?
「それ、あの“別世界”と関係あるのか?」庵原が訊く。
「わからないですけど……ある、と思っといた方がいいと思います。取り越し苦労になる方が、ヤバいものを見逃すよりマシじゃないですか」
ノイズらしきものが写る窓を繋ぎ合わせる。六階建てのビルの、三階より上を囲むようになる。
「これ……本当にこの辺りの空間全部が“そう”なってるとしたら、相当でかいですね」
「この中に人が巻き込まれたらどうなる?」
亜由美は鳩尾の奥から嫌な感覚がせり上がってくるのを感じる。目の前で分解されていった人たちの姿が脳裏に蘇る。
「普通の人なら、死にます」
庵原は頷く。
「……それで、何ですか、これを私に何とかしてほしいってことですか?」
「少しだけ違う」颯介は言う。「何とかするやり方を教えてほしい」
「やり方?」
「そう」
「あなたと、伊関さんに?」
「そう」
ここで亜由美は心に引っかかっていたことを口に出す。
「え、何であいつは来てないんですか?」
「それなんだけどな――」
「初対面の人を寄越して、自分来ないって、ナメてません?」
「それは俺が――」
「頼み事があるんなら自分が来るんが筋なんとちゃいます?」
「私もそう思います。だから来ました」
聞き覚えのある声の方を向く。
伊関杏子だ。