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第4話

知絵は深く息を吸い込み、激しく高鳴る心臓を必死に抑えた。正体を知られるわけにはいかないし、ましてや京都に行くなど絶対にできなかった。


「私は値段がつけられません。」と冷ややかに言い放ち、秋生の横をすり抜けて、足早にオフィスを後にした。


秋生はその場から動かなかったが、その鋭い視線は知絵の後ろ姿をじっと追い続けていた。彼女から漂う微かな香りは、よくある香水とは違い、妙に懐かしかった。


さらに彼の心をざわつかせたのは、彼女の持つ独特な雰囲気――一見柔らかそうでいて、芯にはしっかりとした強さがあった。まるであの知絵のように。あの、穏やかに見えて、決して妥協せず、去ると決めたら迷いなく去っていった女性。


五年経っても、ふとした瞬間に彼女のことを思い出してしまう。妊娠七ヶ月のお腹を抱えた姿も。そして、もしあの子が生きていれば、もう五歳になっているはずだ。あの頃、知絵に愛情はなかったかもしれないが、離婚しようと思ったことはなく、子どもの誕生も心待ちにしていた……秋生の周囲の空気が一気に冷え込んだ。


「秋生」清美が彼の腕にそっと手を添え、不満げに言った。「あの鑑定士、ちょっと態度が悪すぎるわ。ほかの専門家を探したら?アンティークに詳しい人なんていくらでもいるし。」


秋生は眉をひそめ、きっぱりとした口調で言った。「詳しい人は多いが、祖父が指名したのは彼女だ。田中、彼女の身元を徹底的に調べてくれ。」


「もしかして……彼女に興味があるの?」清美の心に警戒の鐘が鳴った。知絵がいなくなってから、秋生のそばにいながらも、正式な関係にはなれなかった。ずっと女性には冷淡な秋生が、今日あの鑑定士を見る目は——


「興味なんてない。祖父が会いたいと言ってるから、身元調査は必要なだけだ。」秋生の声は淡々としていた。


清美はようやく安堵の息を漏らした。そうよね、顔も見せないような女なんて、秋生が気にかけるわけないじゃない。「それじゃあ、ホテルに戻ろう。」


知絵は胸を押さえながらオフィスに戻ると、背中に冷や汗がにじんでいた。秋生の強引さはよく知っていた。彼が簡単に諦めるはずがなかった。今日顔を見せてしまったことで、疑われたかもしれない。もし調べられたら……子どもたちのことだけは、絶対に知られてはいけない!


すぐに電話をかけた。ほどなくして、気だるげな男の声が茶化すように聞こえてきた。「どうしたの、ダーリン?俺のこと恋しくなった?」


「ちょっとお願いがあるの。誰かが私のことを調べるかもしれないから、情報を一切漏らさないようにしてほしい。」知絵は切羽詰まった声で頼んだ。自分一人では秋生の調査には太刀打ちできないが、この男ならできる。


「分かった。」あっさりとした返事。


知絵はほっと息を吐いた。彼が約束したことは、必ず守ると知っていた。


「これで三回目だな。」男がのんびりと付け加えた。


「何のこと?」


知絵は思わず身震いした。こんな悪魔と結婚なんて……秋生と向き合うよりよほど恐ろしい。「冗談じゃないわ。あなたが助けてくれた分、私はちゃんと稼いで返す。これでチャラ。」


「稼ぎより、俺はお前に家計を任せたいんだけどな。」


「あなたの財産なんて、私が持ったらそのまま全部持って逃げるわよ。」


「はは、冷たいな。」


知絵は迷いなく電話を切り、すぐにマネージャーに二日間の休みを申請した。呼吸を整えてからオフィスのドアを開け、明るい声で呼びかけた。「星奈、ママのお仕事終わったわよ。帰ろ……星奈?」笑顔が固まる――部屋には誰もいなかった。


地下駐車場――


慎一は小さなパソコンを抱えて、ため息をつきながらキーボードを素早く叩いていた。陽太がやらかしたことの後始末は、結局兄の自分がしないといけなかった。――監視カメラに侵入して、陽太がマイバッハに落書きした証拠を消す作業だ。


陽太は妹の星奈を連れて、柱の影に隠れ、「ダメパパ」が自分の「大作」を見つけた時の反応を楽しみにしていた。


足音が近づいてくる。秋生たちがやってきた。


「こ、これは一体誰がやったんだ!?」田中は車のドアに書かれたカラフルな大きな文字を見て、思わず息を呑んだ。「妻——す——て——子——す——て——の——大——バ——カ!」と、つい声に出して読んでしまった。慌てて秋生に視線を向けた。


清美も眉をひそめて「こんな大胆なことをするなんて……」


秋生は顔を険しくした。字は明らかに子どものいたずらで、間違いだらけだ。「監視カメラを確認して。」


「えへへ……」柱の後ろから小さな笑い声が漏れた。


秋生はすぐに音の主を探し、鋭い目線で二つの小さな頭を見つけ出した。


「バレた!星奈、逃げるぞ!」陽太が素早く妹の手を引いて走り出す。


「え?どうしたの?」星奈がきょとんとしている間に、兄たちはうさぎのように駆け出してしまった。


「待ってよ、星奈も一緒に!」星奈は慌てて追いかけようとしたが、スカートの裾が引っかかって、勢いよく尻もちをついてしまった。


足音がすぐ近くまで迫ってきた。もう逃げられない!星奈はとっさに地面にうつ伏せになり、両手でしっかりと顔を隠した。「見えない、見えない……」


大きな影が覆いかぶさった。秋生はしばらく地面に転がる小さな「隠れんぼ名人」を見下ろし、無言でしゃがみ込み、片手でひょいと星奈を持ち上げた。


星奈はまだ顔を隠して、ぎゅっと目をつぶっている。このままなら、きっと見つからないはず……


「見えてるよ。」秋生の低い声が響いた。


星奈はビクッとして、そっと片目を開けた。あれ?かくれんぼではいつも兄たちより上手に隠れてるのに!そっと手を下ろしてみると、自分が高く持ち上げられて、手足をぶらぶらさせているのに気づいた。


大きな瞳が潤んで、「ダメパパ」の顔をじっと見つめた――うーん、なんだか、ちょっとカッコイイかも?いやいや、兄たちの方が似てる!星奈はママに似てよかった、パパみたいな変な顔は絶対イヤ!


そんなことを考えながら、星奈の表情はどんどん変わっていた。


秋生はこの可愛らしい表情豊かな顔を見て、思わず微笑みそうになった。「君は誰の子だ?どうして僕の車に絵を描いたんだ?」声は相変わらず冷たい。


星奈は口をぎゅっと結び、何も答えなかった。ママに言われている、知らない人とは話しちゃダメ!ダメパパに捕まったら、もうママに会えなくなっちゃう!


「話さないなら、警察に渡してパパを探してもらうぞ。」


星奈は内心で「バカなパパ、自分を探してどうするの」と突っ込んだ。


秋生は警察を持ち出せば怖がると思ったが、星奈はまったく動じず、ただ瞬きをするだけだった。


「子どもが悪いことをしたら、親が罰を受けるんだ。君のパパを捕まえてもらおう。」


星奈は心の中で大きく頷いた。「捕まえて!早く!星奈も応援する!」


それでも怖がらない星奈に、秋生は少し眉を上げて言った。「それなら、ママも一緒に連れていこうか。」


「だめ!」星奈は一気にムキになり、両手を腰に当てて怒った。「どうしてママまで!パパだけでいいでしょ!ママはダメ!」


秋生は低く笑った。


母親は絶対ダメで、父親なら大歓迎――

この子の父親は、どうやら相当ダメなやつらしい。

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