知絵の顔色が一瞬で真っ青になった。
終わった――!
「しずく、もう帰ってくるの?」
電話の向こうから美咲の声が聞こえてきた。
「ママ……」
知絵の心臓は激しく鼓動し、慌てて携帯を奪い取って通話を切った。
秋生は眉をひそめた。
彼は聞いていた。
電話の中で「ママ」と呼ぶ声が聞こえたのだ。
鋭い視線が知絵に向けられ、彼女の目に浮かんだ一瞬の動揺を見逃さなかった。その疑念は確信へと変わった。
「ママ?君のことを呼んでいたのか?」
知絵は携帯を握りしめ、指先の震えを懸命に抑えながら言った。「友達の子どもが、友達を呼んでいただけ。」
「友達の子ども?」秋生は言葉を区切り、冷たく問い詰めた。「じゃあ、なぜそんなに慌てた?」
「誰が慌ててるの?」
「ふっ。」秋生は鼻で笑った。どんなに平静を装っても、目と仕草はごまかせない。「嘘をついているな、知絵。君はいつも嘘をつくとき、目が泳ぐんだ。」
「秋生、まるで取り調べみたいじゃない。」
「その通りだ。」秋生は目を逸らさずに言い切った。「ずっと気になっていたんだ。あの時、病院に行ったよな。本当に中絶手術を受けたのか?それとも、子どもは中絶しておらず、イギリスでこっそり育てているのか?さっき電話で『ママ』と呼んでいたのは、その子どもじゃないのか?」
彼の一つ一つの問いが、知絵の心を鋭く突き刺した。
図星だった。
知絵は奥歯を噛み締め、秋生の視線を真正面から受け止めた。「違うわ。子どもはとっくにいなくなった。何を疑っているの?私はあなたの子どもを産むと思う?」
秋生の疑いは晴れなかった。七ヶ月の胎児を中絶するのは大きなリスクが伴い、病院なら簡単には許可しないはずだ。本当にそんな決断を下したのか?調査でも彼女は一人暮らしだったと出てきて、疑いは一度は消えかけたが、さっきの「ママ」の声で再び火がついた。
陽太……ママ……
秋生は考えれば考えるほど、当時の中絶が嘘なのではないかと疑いを深めていった。
「違うのなら、今すぐ電話をかけ直して証明してみろ。」
知絵の手が強く握りしめられた。
「怖いのか?やっぱり俺の予想が当たっているんだな?」
秋生の鋭い視線が知絵を逃さない。電話をかけ直さなければ、彼の疑いを認めることになる。
覚悟を決めるしかない――。
「分かったわ。そんなに疑うなら、かけ直す。」
知絵は携帯を開き、再度電話をかける。秋生は一瞬たりとも彼女の表情を見逃さなかった。
すぐに電話がつながり、静まり返った車内に女性の声が響いた。
「もしもし、しずく?まだ来ないの?陽太が待ちきれないって。」
知絵の心臓が跳ね上がった。
「おばちゃん、早く来て!ママと一緒に待ってるよ!」続いて、男の子の元気な声が聞こえた。
秋生は集中して聞き取る。確かに、さっきの子どもの声だ。
知絵はすぐに応じた。「陽太、ごめんね。おばちゃん、急に用事ができちゃって、今日は行けなくなったの。」
「どうして?おばちゃん、約束したのに!」
美咲も続けて、「しずく、何かあったの?手伝えることある?」
「大丈夫、心配ないわ。」
「じゃあ、おばちゃんはいつ来るの?」
「あと二日したら、必ず行くから。」
「うん、おばちゃん、またね!」
「またね。」知絵は電話を切った。手のひらは冷たい汗でびっしょりだった。
電話の中で子どもは「おばちゃん」と呼び、「ママ」と呼ばれたのは美咲だった。やはり秋生の疑い過ぎだったのか――。
知絵は秋生を見て言った。「まだ疑うなら、あなたが自分で調べてもいいわ。」
秋生は黙ったまま、周囲の空気が一気に冷え込む。
知絵は内心でほっと息をついた。うまく切り抜けられた。
一方そのころ、美咲と三人の子どもたちも、胸をなでおろしていた。知絵がなかなか帰ってこず、電話も途中で切れたことで、美咲はすぐ異変に気づいていた。再び電話がかかってくると、慎重に対応したのだった。
やっぱり……!
「ママのこと、心配……」星奈の目が赤くなる。
美咲の顔も曇る。知絵が子どもの存在をここまで隠すのは、秋生のせいしか考えられなかった。「ママを助けに行く!」陽太は小さなリュックをつかんで立ち上がる。
「星奈も行く!」星奈も後に続く。
美咲は二人を慌てて引き止めた。「どこ行くの?ダメ、絶対に出ちゃダメ!お母さんが一番心配してるのは、あなたたちが見つかることよ。自分から危険な目に遭いに行くつもり?」
「でも、ママがダメパパに連れていかれたら……ママが危ない!」星奈は今にも泣きそうだ。
「大丈夫、しっかりして。あなたたちが無事でいれば、お母さんも大丈夫。秋生は知絵に手出しはしないから。さっき心配しないでって言ってたでしょ?きっと知絵には考えがある。ここで大人しくしていようね?」
「でも……」星奈は涙をこらえる。
慎一が妹をぎゅっと抱きしめた。「星奈、ママの言うことを守ろう。じゃないと、ママが余計に心配するよ?」
「……うん。星奈、がんばる。」
慎一は弟に目を向けた。「陽太は?」
陽太も、しぶしぶリュックを下ろした。「陽太も、がんばる。」
三人をなだめ、美咲は責任を感じながら、子どもたちを寝室に連れていった。子どもたちは素直にベッドに入り、すぐに静かになった。
美咲はそっと部屋のドアを閉め、心配そうに知絵に電話をかけてみたが、すでに繋がらなかった。
今は何よりも子どもたちの安全が大事だと、心に決める。
リビングの明かりを消して、自分の部屋へと戻った。
――三十分後。
真っ暗な中、静寂が満ちている。
小さな影がそっと部屋を抜け出し、慣れた手つきで玄関のドアを開け、まるで子猫のように静かに外へ出た。
ドアをそっと閉めて、ほっと息をつくと、手首のスマートウォッチを点灯させる。青白い光が小さな顔を照らした。
さあ、これから――と進もうとした瞬間、暗闇の向こうに二つの人影が現れた!