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第15話

少し離れていたうえ、星奈の声も小さかったため、知絵には聞こえず、そのまま階段を下りていった。


星奈は慌てて追いかけようとしたが、使用人に止められてしまった。「お嬢ちゃん、髪を乾かしてあげるわね。」


「大丈夫です、ありがとう!」星奈はそう言って知絵の後を追いかけたが、すでに知絵の姿は見えなかった。


一階のリビング。


清美はソファに腰かけ、険しい表情で階段を下りてくる知絵を見て、嘲るように言った。「どう?自分がこの家でどれだけ邪魔な存在かわかったでしょう?私だったら、とっくに身の程を知って出て行くけど。」


知絵は今、頭がいっぱいで、とても相手にしている余裕はなかった。


無視された清美は、途端に顔色を曇らせた。彼女は、どこか毅然とした知絵の態度が何よりも気に入らない。絶望していた昔の方が、よほど見ていて気分が良かった。


自分の指にある翡翠の指輪に目を落とし、清美はわざとらしく微笑みながら手を掲げて揺らしてみせた。「この指輪、素敵でしょう?秋生が私にぴったりだって言ってくれたの。どう思う?」もちろん、これが知絵の母の遺物であることは知っている。


その指輪を見た瞬間、知絵は胸を鋭く刺されたような痛みを感じ、目が氷のように冷たくなった。「人の物を奪うのが、そんなに楽しい?」


「人の物?もしかしてこの指輪のこと?」清美は立ち上がり、わざと無邪気な顔で近づいた。「これは秋生が私に贈ってくれたプレゼントよ。あなたが自分の物だって証拠でもあるの?」


「秋生があなたに?」その言葉に、知絵の瞳に一瞬だけ痛みが走った。


「本当に気持ち悪いわね。」知絵は冷たく言い放った。


清美は指輪を嬉しそうに眺め、知絵の耳元で挑発するようにささやいた。「知絵、この指輪は私のものよ。そして、秋生も私のもの!」


「そうなの?」知絵は眉をわずかに上げて、「秋生はあなたのもの?でも、まだ離婚届にサインすらしていないわよね?私と秋生は今も正式な夫婦。そんなにあなたのものを強調して、堂々と愛人宣言でもするつもり?」


清美の顔がみるみるうちに険しくなった。「今、なんて言ったの?」


知絵の視線は鋭く、「あなた、そんなに自信があるなら、この五年で藤原家の奥様になっているはずよね。でも結果はどう?結局、ただの愛人のまま。五年もあげたのに、奥様にすらなれないなんて、あなたの実力はその程度ってことね。さっきから何の立場で私のものとか言ってるの?愛人?それともただの都合のいい女?」


「このっ……!」清美は完全に逆上した。


秋生がまだ離婚していないことは、彼女もわかっている。しかし、この五年間、彼女だけが秋生のそばにいて、誰もが彼女を藤原家の奥様と認めていた。彼女自身も、その地位を当然のものとして受け止めた。


知絵さえいなければ、秋生はすぐにでも離婚して自分を妻にしてくれると信じて疑わなかった。


だが、愛人や都合のいい女という言葉は、彼女が必死に守ってきたプライドを鋭く突き刺した。


「知絵、まだ現実が見えてないの?」清美は声を尖らせて叫んだ。


「あんたの母親が死んだとき、あんたがどれだけ泣いても、秋生はどこにいたと思う?私の母のそばにいて、私の誕生日を祝って、私のために花火をあげてくれたのよ!みんな知ってる、秋生が愛してるのは私だって!愛されていない方が本当の邪魔者なのよ!本当の横入りはあんたの方でしょ!」


さらに言葉を重ねる。


「もしあなたの父親が御祖父様を命がけで助けなければ、御祖父様が可哀想だと思わなければ、あんたみたいな家柄も何もない貧乏な野良犬が、秋生と結婚できるわけないでしょ?あ、そうだ、あなたのお父さんも、恩を売ろうと必死だっただけじゃない?でも運が悪くて死んじゃって。貧乏人の命なんてその程度よ、ちょっとした得のためならすぐに命まで懸けるんだから!」


知絵の手は知らず知らずのうちに強く握りしめられ、爪が掌に食い込んでも痛みすら感じなかった。


彼女の父親は消防士だった。かつて火事に巻き込まれた藤原泰造を救うため、全身の八割に火傷を負い、そのまま帰らぬ人となった。知絵にとって、父は永遠の英雄だ。その父を、今、清美に侮辱された。


知絵は怒りで全身が震え、冷たい視線は鋭く清美を射抜いた。


清美は、そんな知絵の怒りと無力さを見るのがたまらなく好きだった。自分は生まれながらにして選ばれし存在。藤原家を離れれば何も残らない知絵のような野良犬が、どれだけ怒っても自分には何もできないと、心の底から見下していた。


さらに追い打ちをかける。「あなたの父親は早死にだったし、母親も五十で亡くなったんでしょ?それにしても不思議よね、そんな貧乏なのに、どうやってこんな指輪を買ったのかしら?まさか、自分の体でも……」


「パチン!」


派手な音がリビングに響き渡り、周囲の使用人たちも動きを止めた。


清美は頬を押さえ、呆然とした顔で知絵を見つめていた。思いもよらない平手打ちに頭が揺れ、しばらく動けなかった。


「私を殴ったの? 知絵、あんた正気なの? 殺してやろうか……」


「パチン!」


言い終わる前に、知絵はさらに強い平手打ちを見舞った。


容赦ない二発のビンタに、清美は完全に茫然自失。


リビングは静まり返る。


「きゃああぁぁぁ!」数秒後、清美の悲鳴が響き渡った。


階段の踊り場で、ちょうど降りてこようとしていた星奈は、その一部始終を目撃し、ぽかんと口を開けていた。お母さん、かっこいい……!


その直後、秋生と雅子が騒ぎを聞きつけて出てきた。星奈はすぐに壁の陰に隠れ、大きな目でこっそり様子をうかがう。


清美は両手で顔を押さえ、雅子が近づくと同時に大粒の涙をこぼした。


「どうしたの、清美? 一体、何があったの?」雅子が慌てて声をかける。


「おばさん……」清美はしゃくり上げ、しばらく言葉にならなかったが、「おばさん……私、何もしてないのに、こんな仕打ちを……」とかすれ声で訴えた。


「殴られたの?」雅子は顔を上げ、怒りに満ちた目で知絵を睨みつけた。


秋生もまた、清美の赤く腫れた頬にくっきり残る手形を見て、氷のような視線で言った。「なぜ手を出した?」


「殴られるだけのことをしたからよ。」知絵は一歩も引かなかった。


彼女には怒りがある。家族、特に亡くなった両親のことだけは、絶対に誰にも侮辱させない。二発じゃ足りないくらいだ。


「それが理由になるのか?」秋生の声はさらに低くなる。


「彼女は、両親が短命で当然だって言ったのよ。私も死ねばいいって……」知絵の声は怒りと悔しさに震えていた。


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