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第15話 彼があなたの価値を知らないはずがない


美咲は静かに首を振った。


この研究室プロジェクトを立ち上げたのは、ひとつは父の遺志を継ぐため、もうひとつは安定したキャリアを築いて、将来の親権争いに備えるためだった。


だから、正式にプロジェクトが始動するまでは、健一に自分の動きを知られたくなかった。


「森川さん、お願いしたいことがあります。」

美咲は真剣なまなざしで省吾を見つめた。


森川は彼女の頼みを察したのか、先に口を開いた。

「僕にプレゼンを代わってほしいんだね?」


「森川さんの立場と影響力なら、私より説得力がありますから。」

美咲はうなずいた。


森川はすでに発表資料を完璧に頭に入れており、プレゼン自体にはまったく問題がない。ただ、この素晴らしい資料は本来、美咲自身がその努力を世に示すはずの舞台だった。


森川の目に、かすかな痛ましさがよぎる。


「君のように聡明で輝く女性の価値を、彼が知らないはずがない。」


美咲はそっと視線を落とした。彼の優しさが伝わってきたが、どうしても応えることができなかった。


会議室には有力企業の代表者が多く集まり、社長や会長の姿も見える。


小林太郎が熱意のあるオープニングを務めた後、省吾がステージに立ち、研究の方向性を説明した。


森川は黒のタートルネックにグレーのカジュアルなジャケット姿。簡潔な言葉で力強く語り、その立ち居振る舞いからは、医学の天才としての風格がにじみ出ていた。


美咲はその発表を、会場の一番後ろの席から静かに見守った。控えめで落ち着いた学生のように佇んでいたが、壇上で披露される最先端の医学的知見は、すべて彼女自身の手によるものだった。


「やっぱり森川さんだよな! 急きょ代役になったって聞いたけど、今日のこの顔ぶれで美咲が上がったら、投資家逃げるだろ。」


「それな。案内メールで彼女がメインって見た時、正直恥ずかしかったよ。大学中退で、よくプロジェクトの顔なんてできるよな。」


「鈴木さんの方がまだマシだよ。」


前列の同僚たちは、美咲がすぐ後ろにいることに気付かず、好き勝手に話していた。


美咲は静かにその声を受け止めた。今の自分の学歴では、コアメンバーとしての説得力に欠けるのは事実。陰で批判されるのも、ある意味で当然だった。


このチームの協力が必要だし、何よりも強力な投資家の存在が不可欠だった。


森川の堂々たる発表を見つめていたとき、不意に、廊下の方から鋭い視線を感じる。


振り向くと――


健一が、いつの間にか会場から出て、廊下で電話をしていた。その冷ややかな目が、じっと美咲を見つめている。感情の読めない、深いまなざしだった。


美咲は眉をひそめ、三秒だけ視線を合わせ、先に目をそらした。


数分後、そっとバッグを手にして席を立ち、研究センター十階の自分のオフィスへ向かった。


しばらくして、小林太郎からメッセージが届いた。


「美咲、どこ? このあと内部ミーティングあるよ。」


「オフィスにいます。」


ほぼ同時に、森川からもメッセージが入る。


「美咲、しばらく降りてこないで。健一さんがプロジェクトに興味を持ったみたいで、まだ帰っていない。」


美咲の呼吸が一瞬止まる。健一がこのプロジェクトに投資するつもりなのか?  彼の資金力とコネクションは申し分ないが、それでも心の底から拒絶したかった。


これ以上、彼と関わりたくなかった。


「わかりました、森川さん。私の分も休むって伝えてください。」


美咲はその場に留まることにした。


投資家が健一でなければいい、たとえ少し条件が悪くても構わない。研究が進めば、いずれもっと多くの投資家が集まるはずだ。


長居するつもりもなく、車のキーを手に早めにオフィスを出た。


午後四時半、再び森川から連絡が入る。


「美咲、心の準備をしておいて。健一さんが強く投資を希望している。山本教授も彼の参加を歓迎しているよ。」


美咲は焦りを感じながらも、投資の決定権は自分にはなく、健一の判断を待つしかなかった。


娘を迎えに家へ戻ると、松本さんがやってきた。


「奥さま、詩織さんがお見えです。」


美咲は驚き、二階の手すりからリビングを見下ろす。健一の妹、詩織が突然訪ねてきたのだった。


世界中を旅している詩織は、普段ほとんど家に寄り付かない。美咲も結婚後、ほとんど接点がなかった。


「お兄ちゃん、まだ帰ってない?」

詩織が気軽に尋ねる。


「まだよ。」

美咲は階段を下りながら答える。


「おばちゃん!」

栞奈が嬉しそうに駆け寄ってくる。


「おばちゃんのこと、忘れてない? ほんとにちゃんと覚えてる?」

詩織は栞奈を抱き上げて、じっと見つめる。「今夜、一緒に外でご飯食べない?」


「行く! 外がいい!」

栞奈は小さな頭を勢いよく縦に振った。


「よし、美味しいもの食べに行こうね。」

詩織は栞奈のおでこに自分の額を軽く当てて笑った。


美咲はやんわりと誘った。


「せっかく来てくれたんだし、家でご飯どう?」

「ううん、今日は栞奈におもちゃも買ってあげたいから。」

詩織は子どもを抱いたままくるりと背を向けた。「じゃあ、先に行ってるね。」


美咲も心配はあったが、強く止めることはできなかった。


「栞奈、おばちゃんの言うこと、ちゃんと聞くのよ?」


「はーい!」

栞奈は元気よく返事をした。


美咲がさらに声をかけようとしたときには、詩織はもう子どもを連れて出て行ってしまった。

「奥さま、ご主人のご帰宅についてお伺いしましょうか?」

松本さんが尋ねる。


「お願いします。」

美咲は答えた。


松本さんが電話をかけ、すぐに戻ってきた。


「ご主人は外でお食事になるそうです。」


美咲は納得した。詩織がきっと連絡を取るだろうと思いながら、ちょうどその時、携帯が鳴る。


真紀からだった。


「私、ボーナスもらったからごちそうするよ!」


美咲は気分転換もしたかったので、

「ありがとう、場所を送って。」

と返す。


真紀からレストランの住所が送られてくる。


待ち合わせ場所のショッピングモール入口で真紀と合流することになり、向かっていると、手を振る高橋の後ろで、思わず足が止まった。


ぴょんぴょんと跳ねる小さな影――それは、まぎれもなく美咲の娘、栞奈だった。


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