美咲は静かに首を振った。
この研究室プロジェクトを立ち上げたのは、ひとつは父の遺志を継ぐため、もうひとつは安定したキャリアを築いて、将来の親権争いに備えるためだった。
だから、正式にプロジェクトが始動するまでは、健一に自分の動きを知られたくなかった。
「森川さん、お願いしたいことがあります。」
美咲は真剣なまなざしで省吾を見つめた。
森川は彼女の頼みを察したのか、先に口を開いた。
「僕にプレゼンを代わってほしいんだね?」
「森川さんの立場と影響力なら、私より説得力がありますから。」
美咲はうなずいた。
森川はすでに発表資料を完璧に頭に入れており、プレゼン自体にはまったく問題がない。ただ、この素晴らしい資料は本来、美咲自身がその努力を世に示すはずの舞台だった。
森川の目に、かすかな痛ましさがよぎる。
「君のように聡明で輝く女性の価値を、彼が知らないはずがない。」
美咲はそっと視線を落とした。彼の優しさが伝わってきたが、どうしても応えることができなかった。
会議室には有力企業の代表者が多く集まり、社長や会長の姿も見える。
小林太郎が熱意のあるオープニングを務めた後、省吾がステージに立ち、研究の方向性を説明した。
森川は黒のタートルネックにグレーのカジュアルなジャケット姿。簡潔な言葉で力強く語り、その立ち居振る舞いからは、医学の天才としての風格がにじみ出ていた。
美咲はその発表を、会場の一番後ろの席から静かに見守った。控えめで落ち着いた学生のように佇んでいたが、壇上で披露される最先端の医学的知見は、すべて彼女自身の手によるものだった。
「やっぱり森川さんだよな! 急きょ代役になったって聞いたけど、今日のこの顔ぶれで美咲が上がったら、投資家逃げるだろ。」
「それな。案内メールで彼女がメインって見た時、正直恥ずかしかったよ。大学中退で、よくプロジェクトの顔なんてできるよな。」
「鈴木さんの方がまだマシだよ。」
前列の同僚たちは、美咲がすぐ後ろにいることに気付かず、好き勝手に話していた。
美咲は静かにその声を受け止めた。今の自分の学歴では、コアメンバーとしての説得力に欠けるのは事実。陰で批判されるのも、ある意味で当然だった。
このチームの協力が必要だし、何よりも強力な投資家の存在が不可欠だった。
森川の堂々たる発表を見つめていたとき、不意に、廊下の方から鋭い視線を感じる。
振り向くと――
健一が、いつの間にか会場から出て、廊下で電話をしていた。その冷ややかな目が、じっと美咲を見つめている。感情の読めない、深いまなざしだった。
美咲は眉をひそめ、三秒だけ視線を合わせ、先に目をそらした。
数分後、そっとバッグを手にして席を立ち、研究センター十階の自分のオフィスへ向かった。
しばらくして、小林太郎からメッセージが届いた。
「美咲、どこ? このあと内部ミーティングあるよ。」
「オフィスにいます。」
ほぼ同時に、森川からもメッセージが入る。
「美咲、しばらく降りてこないで。健一さんがプロジェクトに興味を持ったみたいで、まだ帰っていない。」
美咲の呼吸が一瞬止まる。健一がこのプロジェクトに投資するつもりなのか? 彼の資金力とコネクションは申し分ないが、それでも心の底から拒絶したかった。
これ以上、彼と関わりたくなかった。
「わかりました、森川さん。私の分も休むって伝えてください。」
美咲はその場に留まることにした。
投資家が健一でなければいい、たとえ少し条件が悪くても構わない。研究が進めば、いずれもっと多くの投資家が集まるはずだ。
長居するつもりもなく、車のキーを手に早めにオフィスを出た。
午後四時半、再び森川から連絡が入る。
「美咲、心の準備をしておいて。健一さんが強く投資を希望している。山本教授も彼の参加を歓迎しているよ。」
美咲は焦りを感じながらも、投資の決定権は自分にはなく、健一の判断を待つしかなかった。
娘を迎えに家へ戻ると、松本さんがやってきた。
「奥さま、詩織さんがお見えです。」
美咲は驚き、二階の手すりからリビングを見下ろす。健一の妹、詩織が突然訪ねてきたのだった。
世界中を旅している詩織は、普段ほとんど家に寄り付かない。美咲も結婚後、ほとんど接点がなかった。
「お兄ちゃん、まだ帰ってない?」
詩織が気軽に尋ねる。
「まだよ。」
美咲は階段を下りながら答える。
「おばちゃん!」
栞奈が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「おばちゃんのこと、忘れてない? ほんとにちゃんと覚えてる?」
詩織は栞奈を抱き上げて、じっと見つめる。「今夜、一緒に外でご飯食べない?」
「行く! 外がいい!」
栞奈は小さな頭を勢いよく縦に振った。
「よし、美味しいもの食べに行こうね。」
詩織は栞奈のおでこに自分の額を軽く当てて笑った。
美咲はやんわりと誘った。
「せっかく来てくれたんだし、家でご飯どう?」
「ううん、今日は栞奈におもちゃも買ってあげたいから。」
詩織は子どもを抱いたままくるりと背を向けた。「じゃあ、先に行ってるね。」
美咲も心配はあったが、強く止めることはできなかった。
「栞奈、おばちゃんの言うこと、ちゃんと聞くのよ?」
「はーい!」
栞奈は元気よく返事をした。
美咲がさらに声をかけようとしたときには、詩織はもう子どもを連れて出て行ってしまった。
「奥さま、ご主人のご帰宅についてお伺いしましょうか?」
松本さんが尋ねる。
「お願いします。」
美咲は答えた。
松本さんが電話をかけ、すぐに戻ってきた。
「ご主人は外でお食事になるそうです。」
美咲は納得した。詩織がきっと連絡を取るだろうと思いながら、ちょうどその時、携帯が鳴る。
真紀からだった。
「私、ボーナスもらったからごちそうするよ!」
美咲は気分転換もしたかったので、
「ありがとう、場所を送って。」
と返す。
真紀からレストランの住所が送られてくる。
待ち合わせ場所のショッピングモール入口で真紀と合流することになり、向かっていると、手を振る高橋の後ろで、思わず足が止まった。
ぴょんぴょんと跳ねる小さな影――それは、まぎれもなく美咲の娘、栞奈だった。