美咲は胸がざわつき、顔を上げると、娘の後ろから健一の落ち着いた姿が見えた。
ほっとしたのも束の間、人混みの中からさらに二人の姿が現れた。詩織が親しげに白川夢乃の腕を取り、二人で楽しそうに話している。
美咲は呼吸が止まりそうになった。
その時、そっと誰かが美咲の腕を取った。真紀が心配そうに言う。
「美咲、場所を変えて食事しよう。」
美咲は拳を強く握りしめた。娘の親権さえ自分にあれば、絶対に佐藤家の人間が娘を連れて白川夢乃に会わせることは許さない――離婚への思いが激しくこみ上げてきた。
「美咲、行こう。向かいのレストランも悪くないよ。」真紀が手を引いてくれた。
レストランに入り、真紀は心配そうに美咲を見つめる。「さっき白川夢乃と腕を組んでたのって、健一の妹さん?」
「うん。」美咲はうなずく。
「白川夢乃、やり手ね。健一だけじゃなくて、佐藤家まで味方につけてるなんて。」
美咲はあの晩、お義母さんが白川夢乃に親しげに接していたことを思い出した。佐藤家の人たちにとって、白川夢乃はすでに家族同然なのだろう。
「美咲、覚悟しておいたほうがいいよ。浮気した男は、離婚となると冷たくなるもの。もしそうなった時、健一はきっと細かいことまでこだわってくるよ。」真紀が釘を刺す。
美咲は誰よりも健一の冷酷さを知っていた。今の彼の態度を見れば、離婚後は容赦ないのは明らかだった。
美咲が山本教授のプロジェクトに参加することを話すと、真紀は喜んでくれた。「それはあなたの実力が認められた証拠よ。でも、離婚は焦っちゃだめ。彼を追い詰めすぎたら、逆に主導権を握られるわ。」
真紀はさらに真剣な顔で言った。「美咲、今は静かに力をつけて、確かな証拠を握っておくことが大事よ。」
真紀の助言は的確だった。健一の浮気の証拠を集めるべき時なのだ。
彼女は一つの番号を差し出す。「私の知り合いの探偵さん。腕は確かだから、きっと力になってくれるはず。」
美咲はその番号を保存した。きっと役に立つ時が来る。
夜の九時、外から娘のはしゃいだ声が聞こえてきた。健一がドアを開け、栞奈が新しいぬいぐるみを抱えて飛び込んできた。「やったー! 今日一番に帰ってきたよ、パパ負けちゃった!」
美咲は怒りを必死に抑えながら、「今日は楽しかった?」と声をかけた。
「うん! ママも一緒だったらよかったのに。すごくきれいなケーキがあったから持って帰ろうとしたの。けど、落としちゃった……」栞奈はしょんぼりした。
美咲は娘を抱きしめた。「その気持ちだけで、ママはとっても嬉しいよ。今度はもっときれいなケーキを一緒に作ろうね。」
モモがしっぽを振りながら駆け寄ってくる。栞奈はぬいぐるみを抱えて、「モモ、一緒に二階で遊ぼう!」と駆けていった。
娘が階段を上がるのを見送り、美咲が振り向こうとした時、健一の声がした。「今日、なんで東京医科大学に行った?」
「通りがかり。」美咲は淡々と答え、そのまま娘の後を追って階段を上がった。
数分後、健一が車で出かける音が聞こえた。
娘と遊んでから、半時間ほどしてお風呂に入るよう促すと、栞奈はまだケーキの話をしていた。「もし落とさなかったら、ママにも食べてほしかったな……」
「どうして急に落ちちゃったの?」美咲は顔を拭きながら尋ねた。
「わかんない。急に落ちたの。」栞奈はがっかりした顔をしている。
美咲はふと手が止まった。「急に」なんて、おかしい。娘が持ち帰ろうとしたのを誰かがわざと落としたのかもしれない。
目に冷たい光を宿し――白川夢乃の仕業だと確信した。彼女は娘を利用して健一の気を引き、母娘の絆を邪魔しようとしている。
でも、幸いにも娘の愛情は戻ってきている。
「大丈夫。ママ、今度もっと素敵なケーキを作ろうね。」美咲は優しく言った。
「うん!ねぇ、ママはなんでお仕事してないの?」栞奈が急に聞いてきた。
美咲は驚いて、「どうしてそう思ったの?」と尋ねる。
「だって、おばさんがママはずっと仕事してないし、パパのお金ばっかり使うって……それに、パパのじゃまだって言ってた……」栞奈は頬をふくらませ、小さいながらもその言葉が悪口だとわかっている様子だった。
美咲は微笑んで、「ママ、もう仕事始めてるよ。これからたくさん稼いで栞奈を育てるからね」と優しく答えた。
「うん!ママ、がんばって!」
美咲は娘の頭を撫でた。佐藤家の人たちにどう思われようが、もうどうでもよかった。いずれ健一とは離婚する。その時、佐藤家とは何の関わりもなくなる。
お風呂から出ると、健一がベッドの端に座っていた。
美咲の視線からは、彼が伏し目がちに長いまつ毛を落とし、娘の前でだけ見せる優しい表情をしているのが見えた。
足音に気付いた健一が顔を上げる。美咲は考え事をしていてパジャマを持ってくるのを忘れ、バスローブ姿で、乾かした長い髪がふんわりとして小さな顔立ちをより際立たせていた。
特にその瞳は、潤んでいるようでどこか距離があり、何かを秘めているようだった。
「パパ、自分の部屋で寝て! ママがお話してくれるから。」栞奈が健一を押す。
健一は我に返り、娘の頭を軽く撫でて、「わかった。パパ、お風呂に入ってくる。」と答えた。
美咲はその隙にウォークインクローゼットへ逃げ込み、ドアが閉まる音を確認してから出てきて、パジャマに着替え、娘を抱きしめながら絵本を読み聞かせた。