翌朝、娘を送り届けた美咲は、そのまま研究センターへ向かった。この日は準備会議が開かれる日で、出席者も多い。
山本教授をはじめ、病院長、六人の主任医師、さらに研究チームのメンバーが集まり、会議は厳粛な雰囲気に包まれていた。
議題は、八種の希少疾患と白血病の診療技術研究について。会議は二時間に及んだ。
終了後、省吾と一緒に昼食を取ることにした。
食堂を出たところで、爽やかな声が響いた。
「森川さん、午後に少しお時間いただけますか?個人的に聞きたいことがありまして。」
鈴木晴子だった。
「三時以降なら大丈夫だよ。」森川が応じる。
「ありがとうございます!」と晴子が目を輝かせる。
美咲は時計を見て、「森川さん、私は先に失礼しますね。」
「うん、気をつけて。」森川も会釈して、それぞれの仕事に戻った。
美咲が花壇のそばを歩いていると、声をかけられた。「佐藤さん、少しお話しできますか?」
振り返ると、鈴木晴子だった。美咲は丁寧に尋ねる。「どうかしましたか、鈴木さん?」
晴子は鋭い視線を向けてきた。「今回のプロジェクトは、私や佐々木さん、田中さんにとって修士号の取得がかかっている大事なものです。」
「分かっています。」
「だからこそ、メンバー全員が高い専門性を持っていなければなりません。率直に言わせてもらうけど、ここにいるのはみんな優秀な専門家ばかり。あなたは大学を中退したと聞きましたが、本当にやっていける自信はあるんですか? 攻撃するつもりはありません。ただ、念のために伝えておきます。」
「不安に思うのも無理はないけど、私が足を引っ張ることはありません。」
「もしこのまま続けるなら、大事な実験には関わらないでほしい。専門知識が足りないまま失敗でもしたら、あなた一人だけの問題じゃなくて、私たちチームや山本先生の評価にも関わりますから。」
美咲は言葉に詰まった。
「もちろん、今ここで辞めてもいいんですよ。もう結婚されているんですよね? 家事や子育てに専念した方がいいんじゃないですか。医療の現場は、あなたには向いていないと思います。」
そう言い残し、晴子は高慢な態度で背を向けた。
美咲はしばらくその場に立ち尽くし、自分の車へと歩き出した。
一度家に戻り、四時に娘を迎えに行くため出発し、ついでにスーパーで買い物もするつもりだった。
だが、別荘地の出口付近で工事中の看板に行く手を遮られた。水道管の破裂で工事が行われているらしい。仕方なく遠回りをして学校へ着いたのは四時四十五分だった。
急いで校舎に入ると、担任の先生が驚いた様子で言った。「佐藤さん、栞奈ちゃんはもうお迎えに来られましたよ。ご存知なかったですか?」
「誰が迎えに来たんですか?」
「お嬢さんの叔母様です。」
美咲の表情が険しくなる。健一が白川夢乃に娘を迎えに行かせたのか。
「先生、あの方は娘の叔母ではありません。今後は私か夫以外の人には絶対に引き渡さないでください。お願いします。」
そう伝えてその場を後にした。
先生は呆然としていた。叔母じゃなかったの?でも、お父さんとよく一緒に……
車に戻った美咲は、すぐに健一へ電話をかけた。
「もしもし。」
「白川夢乃の住所を教えて。栞奈を迎えに行く。」
「栞奈はそこじゃないよ。今は母の家にいる。」
美咲は深呼吸をしてから言った。「たとえお母さんの家に行くにしても、私が連れて行くべきでしょう。どうして勝手に他の人に迎えに行かせるの?」
数秒沈黙した後、「詩織が迎えに行ったんだ。」
美咲は言葉を詰まらせた。詩織が?白川夢乃も同行していたのか。
「分かりました。」と冷たく言い、電話を切った。
家に戻ると、松本さんが出迎えた。「ご主人からお電話がありました。今夜は佐藤家で夕食を取るそうです。」
「松本さん、私は食欲がないので、あっさりしたうどんを作ってもらえますか。」
「かしこまりました。」
娘が佐藤家にいること、そして白川夢乃も一緒にいるかもしれないと思うと、気持ちのざわつきが収まらなかった。
夜八時、美咲は健一に電話をかけた。
「もしもし。」
「栞奈はいつ帰るの? 明日は学校があるから、早く寝かせたい。」
「明日は休みを取ったから。」
美咲はこめかみを押さえて言った。「健一、どうして私に相談せず勝手に休ませたの?」
「来週から休みなんだから、もういいだろ。」健一は素っ気なく言い、電話を切った。
美咲は大きく息を吐き、苛立ちが募るばかりだった。離婚の思いが、これまでになく強くなる。
ふと思い出し、真紀からもらった探偵の番号を取り出し、すぐに電話をかけた。
「はい、どちら様ですか?」中年の男の声が返ってくる。
「すみません、人を調査してほしいのですが。」
依頼だと分かると、相手の声色も少し明るくなる。「承りました。詳しくはお会いしてご相談しましょう。」
美咲はもう待つつもりはなかった。
何としても裁判で勝ち、娘を取り戻さなければ。
証拠だけが、唯一の切り札だ。