翌朝、カフェにて。
美咲はサングラス姿、相手は帽子にマスク、サングラスと完全防備で、どこか謎めいた雰囲気を漂わせていた。
しばらく会話を交わした後、探偵はやっと警戒を解き、素顔を見せる。きびきびとした中年男性だった。元はゴシップ記者で、今は探偵業をしているという。
「奥さま、色々お話しいただきましたが、肝心のご依頼内容をまだ伺っていませんね」
「夫のことです」と美咲が答える。
「浮気の証拠を押さえてほしい、ということですね?」
「ええ」
「お任せください、こういう仕事は得意です。一週間以内に必ず結果を出します」
美咲はまずは様子を見るつもりで、深入りせずに話を進めた。
「料金は?」
「ご主人の情報を見てからでないと、正確には申し上げられません」
美咲はスマートフォンの写真を差し出す。「健一、佐藤キャピタルグループの社長です」
「えっ、あの横浜の資産家、健一さん?」
探偵が驚いた様子を見て、美咲は写真を引っ込めた。「無理そうなら、やめても構いません」
「いえいえ、ぜひやらせてください。ご予算次第で対応します」
探偵の目が輝いた。これは大きな案件だ。まさか健一に妻がいるとは知らなかった。美咲の控えめさに感心する。
自信ありげな様子を見て、美咲は三百万円で契約することにした。高額だが、娘の親権のためには仕方がない。
「まずは百万円、経費として先に頂きます」
美咲は頷き、すぐに振込を済ませた。
娘もいない今、美咲は行くあてもなく時間を持て余していた。
研究室は年明けから始動予定。時計を見て、美咲は省吾に電話をかける。
「はい」
「森川さん、今日お昼ご一緒しませんか?」
「いいですね。僕がおごりますよ」
「じゃあ、会ってから話しましょう」と美咲は微笑む。
レストランにて。
「美咲、覚悟はしておいた方がいいよ。健一の投資意欲は本気だ」と森川がグラスを手に話す。
美咲は静かに頷く。「うん」
特に隠しているつもりはない。ただ、正式に研究室に入ってから伝えようと思っている。離婚する時には、いずれ職業のことも明かす必要があるのだから。
二人が語り合っていると、入り口から友人と共に入ってきた田中陽太が、ふと二人に気づいて目を見張る。
「陽太、何見てるんだ? 早く食べよう」と友人が声をかける。
田中は二人が楽しそうにしているのを見て、声をかけるのをやめ、友人と一緒に個室に入った。
個室で、友人が肩を叩く。「陽太、この前頼んだ佐藤の新規プロジェクトの件、聞いてくれた?うちの会社、本気でやりたいんだ」
「悪い、すっかり忘れてた!今すぐ聞いてみるよ」と田中は恐縮しながら健一に電話をかけた。
「陽太、どうした?」
「健一、新しい投資案件なんだけど、デザイン会社をやってる友人が興味あるんだ。時間が合えば一度会ってもらえない?」
「年明けになってからだな。今はちょっと無理だ」
「了解、全然問題ない。それより、さっき奥さんを見かけたよ。省吾と一緒に食事してた」
「そうか」と健一は淡々と返す。
「もしかして、何かあったの?」
「いや、何も」
陽太はそれ以上詮索せず、「じゃあ、また連絡する」と電話を切った。
電話を切ると、友人が身を乗り出してきた。「健一って結婚してたの?白川夢乃と付き合ってるって聞いてたぞ。前に空港で一緒にいるのを見かけたし」
「知らなかったの?」と陽太が周りを見る。健一が結婚して六年も経つのに、皆驚いた顔をしている。
皆が首を振る。さっき話していた男が感心したように言う。「でも、白川夢乃って本当に美人だよな。知ってる女性と比べ物にならない」
「彼女はピアニストだし、あの雰囲気は普通の人には出せないよ。こないだ彼女の広告に見とれて立ち止まっちゃったくらい」
陽太が笑いながら言う。「これからはあまり口に出さない方がいいよ。健一には奥さんがいて、娘ももう五歳なんだから」
「それにしても、よくここまで隠してたよな。噂も記事も見たことない。まあ、あれだけの資産家なら、浮いた話があっても不思議じゃないけど、隣の芝生は青いってやつだな」
「もういいだろ。美咲さんもすごい美人だし。そろそろ乾杯しよう」と田中が場を和ませた。
窓際のテーブルでは、美咲と森川がすでに食事を始めていた。森川は医学の話題を振り、美咲の意見に感心していた。
「君のお父さんは本当に立派な方だったよ。一緒に働いたのは二年だけだったけど、今でも尊敬してる」
「ちょっと頑固で、怒ると怖かったけどね」と美咲が微笑む。
森川は吹き出した。「本当だ。うちの大学で教えてた時なんて、学生が抗議したくらいだよ」
美咲も笑うが、目元がわずかに潤む。それに気づいた森川が慌てる。「ごめん、美咲。余計なこと言ったね……」
美咲は目元を軽く拭い、「大丈夫」と答えた。
その時、スマホが鳴った。健一からだった。美咲は席を立ち、「ちょっと失礼します」とレストランの外へ。
「もしもし?」
「ママ!」娘の可愛らしい声が聞こえてきた。
「栞奈?」
「ママ、今夜おばあちゃんの家でご飯食べない? 私も、ひいおばあちゃんも待ってるよ!」
「うん、今夜行くね」
「ひいおばあちゃん、ママ来てくれるって!」栞奈は周りに向かって伝えているようだ。
「うん!早く来てね、待ってるから」
美咲は優しく微笑みながら、「分かった、ママ早めに行くね」と答えた。
電話を切った栞奈は、リビングでソファに座る健一にスマホを返す。「パパ、ママ来てくれるって!」
「うん」と健一は口元に微かな笑みを浮かべる。
「ご主人さま、おばあさまがお呼びです」と使用人が声をかける。
健一はスマホをしまい、和室へ向かった。佐藤夫人は生け花をしていて、健一が来ると尋ねる。「夢乃さん、まだいるの?」
祖母の意図を察し、健一は「詩織の部屋で話してます」と答える。
「三時までには帰してあげて。今夜は美咲が来るから、あまり顔を合わせない方がいいわ」
「分かりました」と健一は頷いた。
詩織の部屋では、彼女が長年胸に秘めてきた秘密を、白川夢乃に打ち明けていた。