「彼って本当に魅力的なの。どんな仕草も目が離せなくて……毎日こっそりインスタをチェックしちゃうし、ジムで偶然を装って会いに行ったりもしてるの。スーツ姿なんて、一度見たら忘れられないよ! 本当に大好きだけど、告白する勇気がなくて……」
詩織は両手で顔を覆い、すっかり恋する女の子の顔だ。
「陽太くんは確かに素敵だよね。詩織、大丈夫、きっと彼もあなたのことが好きだよ。」
夢乃が優しく励ます。
「本当に? 彼、私のこと好きになってくれるかな?」
いつもは自信満々な詩織が、好きな人の前ではすっかり弱気になっている。兄の親友に恋をしたことで、彼女は少し恥ずかしそうだ。
夢乃は詩織をじっと見つめて、微笑みながら言う。
「こんなに可愛いんだもん、好きにならない男なんていないでしょ?もしかしたら、もうとっくに気づいてるかもよ?」
詩織は褒められて嬉しそうに夢乃の腕にしがみつき、「じゃあ夢乃さんは?いつうちの兄に気持ちを伝えるつもりなの?」と逆に尋ねる。
夢乃は少し苦笑いして、
「私とお兄さんは……きっと一生友達のままだよ」
とつぶやく。
詩織は慌てて言う。
「そんなこと言わないでよ!お兄ちゃん、絶対夢乃さんのこと好きだもん!」
さらに続けて不満そうに言う。
「だいたい、昔だって無理やりあの人がうちに来て看病したわけじゃないし! あとから看病記録なんて見せて同情を買おうとして、ほんとズルい。お兄ちゃんも若かったから騙されたのよ。家柄も全然釣り合わないのに、あんな人じゃお兄ちゃんにはふさわしくないよ!」
夢乃は小さくため息をつく。
「もう、仕方ないよ。私は諦めてるから」
「夢乃さん、諦めちゃダメ! 本当にお兄ちゃんのことが好きなら、絶対に取り戻して! 誰が見ても、あの美咲より断然夢乃さんのほうがいいに決まってる!」
夢乃は思わず吹き出して、「本当に?」と聞く。
「もちろん! 昔からお母さんだって美咲がうちに来るのには反対してたし、今だってお兄ちゃん、もう彼女に未練なんてないよ」と詩織は自信たっぷりに答えた。
夢乃の口元がわずかにほころぶ。主婦なんか、私と比べられるはずがない――そんな思いがよぎる。
*
午後三時半、佐藤家。
詩織と夢乃はまだ部屋で内緒話をしていた。ノックの音がして、詩織が「どうぞ」と答える。
健一がドアを開け、夢乃に「送っていくよ」と声をかけた。
「お兄ちゃん、まだ早いでしょ! なんで夢乃さんを急かすの?」詩織が不満をもらす。
「今夜、美咲が来るんだ。」
「奥さんが来たって、なんで夢乃さんを追い出すの?!」詩織は食い下がる。
夢乃が間に入る。「もういいの、詩織。私がいたら誤解されるかもしれないし。」
「夢乃さんは私の大切なお客様なんだから、誤解するほうが悪いのよ! 文句があるなら私に言えばいいのに!」
夢乃はそっと詩織の肩を叩いて、「そんなこと言わないで。もう帰るから」と優しく言う。
詩織は名残惜しそうに夢乃を見送る。秘密を共有した二人には、まだまだ話したいことが残っていた。
夢乃は階下に降り、佐藤家の奥様に挨拶して家を後にした。
健一の車は1一キロほど走った交差点で、白いセダンとすれ違う。それは美咲の車だった。
美咲は車窓から流れる車をぼんやりと眺めていたが、ふと見慣れたナンバーに気づく。それは健一の車だった。助手席に座る華奢なシルエット、すぐに夢乃だと分かる。
結婚してから、健一の助手席に座った女性は自分以外に夢乃だけだった。
娘の世話を頼んだのも、実は自分のためじゃなく、夢乃と会うためだったのだ。
健一はこちらの車には気づかなかったようで、すぐに車を発進させて立ち去った。
美咲の車はやがて佐藤家に到着し、庭に停める。
栞奈が「ママ!」と可愛らしく駆け寄る。
美咲は娘を抱き上げ、やさしく頬ずりする。
リビングでは雅子が家政婦に指示を出していた。美咲が入ってくると、ちらりと視線を向ける。
「お義母さん」と美咲は控えめに声をかけた。
雅子はそのまま部屋に戻り、休むことにした。美咲は栞奈とリビングで遊ぶことに。
栞奈は遊びに夢中で、自分でお人形遊びを始める。
「赤ちゃんは寝るよ、ママも一緒に寝よう。パパもお布団に入ってね」
そう言いながら三つのお人形をティッシュの布団に寝かせる。
さらに別のお人形を手に取って、
「私はおばちゃん、ピンポン! 一緒に寝てもいい?」と話しかける。
「もちろんだよ!」栞奈はそのお人形もベッドに入れる。
美咲はそっと言う。「栞奈、でもおばちゃんはお客さんだから、客間で寝てもらおうね」
栞奈はお人形を隣の小さなベッドに移し、
「じゃあ、ここで寝てね。私たちと一緒には寝られないよ、お客さんだから」
と納得した様子。
美咲は娘の頭を撫でながら、心の中で思う。まだ分からないことも、少しずつ教えていかないと。
そのとき、二階からおしゃれな姿の詩織が降りてくる。ソファに座る美咲を一瞥し、キッチンに向かって「お母さん、出かけてくる」と声をかける。
「もうすぐご飯よ、どこに行くの?」雅子が尋ねる。
「友達と約束があるの」とだけ言って、詩織は美咲に目もくれず家を出ていく。
言葉にしなくても、美咲には分かる。自分が来たから詩織は家で食事をしたくないのだ。
美咲の表情は少しこわばる。
娘を見つめながら、今すぐにでも離婚して一緒に家を出たい――そう願わずにはいられなかった。
けれど、今はまだ、その時ではない。