夕食の席で佐藤夫人は上機嫌で、美咲と海外での体験談をたくさん語り合っていた。気がつけば、もう8八時半を回っていた。
「美咲、今夜は泊まっていきなさい。もう帰らなくていいから」と佐藤夫人が引き止める。
美咲はにこやかに首を振った。「いえ、栞奈を連れて帰ります。騒がしくしてしまうとご迷惑ですから」
「賑やかな方がうちには合ってるわよ。栞奈は本当にムードメーカーなんだから!」佐藤夫人は譲らず、「一晩くらい泊まっていきなさい」
健一が今夜は戻らないだろうと思った美咲は、しばらく考えてから「では、お言葉に甘えます」と応じた。
九時半ごろ、栞奈がお風呂から上がると、雅子が抱えて部屋に連れていった。美咲も佐藤夫人と争うわけにもいかず、使用人に案内されて三階へ。「奥様、こちらがお部屋です」
微笑みながらドアを開けた美咲は、思わず足を止めた。ハンガーには男性用のスーツとコートが掛かっている。なんと、使用人は健一の主寝室へ案内してしまったのだ。
すぐに部屋を出ようとしたが、使用人はすでに立ち去っていた。
美咲は眉をひそめたが、仕方なく中へ入る。バルコニーのそばにソファがあるのを見つけ、今夜はここでなんとか過ごそうと決めた。
お風呂にも入らず、エアコンの温度を少し上げて、コートを掛けてソファに身を丸めて眠りについた。
夜明け前、ドアが静かに開いた。男がソファに丸くなっている美咲の姿を見て眉をひそめ、上着を脱ぐ。ベストが彼のすらりとした体を際立たせていた。
美咲は眠りが浅く、健一が服を掛けるわずかな物音で目を覚ました。部屋にもう一人いるのを見て、すぐに身を起こす。
「ベッドで寝なさい」と健一が淡々と言う。
美咲はスマホを手に取り、時間を確認した。まだ夜明け前。すぐに帰ることを決める。
「結構です、帰ります」とコートを羽織る。
健一は服を掛ける手を止め、黙って上着を着直すと、冷ややかな表情で「俺が出ていく」と言い残して、スマホを持ちドアを閉めて出ていった。
美咲は呆然としたまま、部屋に残る彼の冷たさを感じた。目を閉じて、余計なことは考えないようにした。
その夜、健一は二度と戻らなかった。どこへ行ったのか、美咲は気にしないことにした。
翌朝、朝食後に美咲が娘を連れて帰ろうとすると、雅子がきっぱりと断る。「栞奈にもう少し泊まってもらいたいわ。私たちもあまり一緒にいられないし、おばあ様も賑やかなのが好きだから」
美咲はそれ以上何も言えなかった。結婚してから、いつも自分が譲ってきた。
親権のことでもめる時期ではない。今はお義母様に逆らうわけにはいかない。
佐藤家を出た美咲は、気分転換に市内を車で少し走ってから自宅へ戻った。
玄関を開けると、松本がにこやかに迎えた。「お帰りなさいませ、奥様」
美咲は軽くうなずいて、よく眠れなかったせいで疲れた様子でバッグを持って二階へ。「しばらく休むから、邪魔しないでね」
「奥様、ご主人さまがいらっしゃいます」と松本が小声で言う。
美咲は一瞬身構える。「いつ帰ったの?」
「はっきりとは分かりませんが、今朝起きた時にはご主人さまの靴とスーツが玄関にありました」
美咲はうなずいて階段を上がり、自室の鍵をかけた。松本にも、健一にも、今日は誰にも邪魔されたくなかった。
十時頃、健一はすっきりした顔で階下へ降りてきた。松本が尋ねる。「ご主人さま、お昼はご自宅で召し上がりますか?」
「いや、いい」健一はカフスボタンを整えながら答える。
「奥様、家にいらっしゃいます」松本がそっと伝える。
健一は少しだけ足を止め、「出かけると伝えてくれ」と言い残して出ていった。
松本は去っていく主人の背中と、二階の閉ざされたドアを見上げて、心の中でため息をついた。以前は冷たかったとはいえ、奥様は少なくともご主人さまを気遣っていた。
今では、奥様まで距離を置くようになってしまった。この家で五年、松本は家族がバラバラになるのを恐れていた。
美咲は午後3三時頃までぐっすり眠った。
研究室には大量の理論書や父が遺した研究ノートが山積みだ。
冬休みに入り、年末も近い。小正月の日、美咲は佐藤家の佐藤夫人から電話を受け、年越しのために佐藤家へ来るよう誘われた。美咲も娘に会いたく、断らなかった。
車で家を出たところで、電話が鳴る。
「佐藤さんですか? 森川博士の助手の小野です。森川博士が高熱で入院されたのですが、私の母も病気で……代わりに様子を見ていただけませんか?」
美咲は驚いた。「どこの病院ですか? すぐ行きます」
車を飛ばして病院に着くと、省吾の病室を見つけた。彼は点滴を受けながら本を読んでいた。美咲の姿に気づくと、驚きの表情を見せる。「美咲? どうしてここに?」
「体調を崩したと聞いて、様子を見に来たのました」と美咲が説明する。
「大したことないよ、わざわざ来てもらうほどじゃない」森川は軽く笑った。美咲は黙って彼の額に手を当てる。
森川は一瞬硬直したが、美咲のひんやりした手をそのまま受け入れ、目に柔らかな笑みを浮かべた。
美咲は点滴の内容を確かめる。「ウイルス性の高熱ですね。二日くらい点滴を続ければ下がるわ」
森川はふと気づいたように言う。「今日はお正月だろう?家族と過ごさなくていいのか?」
美咲はそこで佐藤家に連絡するのを忘れていたことに気づき、時計を見るともう七時。急いで「ちょっと電話するわ」と言い、廊下へ出た。
しばらく迷った末、健一の番号を押す。
「もしもし」
「おばあ様に、今夜は伺えないと伝えてもらえますか」と美咲は平静に告げる。
「分かった」健一はそれだけ言って、すぐに電話を切った。
結婚して六年、健一の本心は未だに分からない。さっきの「分かった」は怒っているのか、無関心なのか、全く読み取れなかった。
十八歳でウォール街で顧問を務めた男は、感情を徹底的に隠すよう身につけている。喜怒哀楽を表に出さず、冷静で、誰にも本音を見せない。
森川がまだ何も食べていないと知り、美咲は食べ物を買いに行くことにした。
外来の点滴室を横切り、やっとお粥を手に入れる。戻る途中、ふと明るい点滴室に目をやった美咲は、思わず足を止めた。
夜の点滴室は人影もまばら。広い休憩スペースのソファに、一組の男女が寄り添って座っている。女性はうたた寝していて、彼女の肩には男性の大きな上着が掛けられていた。男性はソファにもたれ、女性の頼もしい支えとなっている。
その二人は、健一と夢乃だった。