月曜の朝。
弘一は両目にくっきりとクマをつけて出社した。
昨晩の雪菜の“告白”が頭を離れず、ほとんど眠れなかったうえ、システムの「羞恥ゲージ」通知が何度も表示され、不眠に拍車をかけた。
「おはよう、近藤さん」
同僚の佐藤が彼の肩をポンと叩く。
「なんか、トラックに轢かれたみたいな顔してるぞ」
「まあ、あながち間違ってない……」
弘一は力なく答えた。
そのとき、オフィスの空気が一気に冷え込んだ。
コツ、コツと高いヒールの音が近づいてくる。
廊下の端に現れたのは、九条琉璃。
今日も変わらず黒のスーツ姿、髪はきっちりまとめられ、唇は一文字に結ばれ、眼光は鋭いナイフのようだ。
社員たちの動きが止まる。
「お、おはようございます、部長!」
九条琉璃は軽く会釈しながら皆を見渡し、最後に弘一の前で立ち止まる。
「近藤」
「は、はいっ!」
弘一は反射的に背筋を伸ばす。
「先週のクライアントに出した資料、データが間違ってた」
そう言うと彼女は書類の束を机に叩きつけた。
「あなたのミスのせいで、先方が再交渉を求めてきた」
「そ、そんなはずは……ちゃんと確認したんです!」
弘一が言い返すと、「確認?」と九条が鼻で笑う。
「つまりお前の確認の結果、こんな低レベルのミスが起きたってこと?」
彼女は書類を開き、赤くマークされた部分を指差す。
弘一がのぞきこむと、絶句した。
――確かに、ひどい間違いだった。
「その……」
「言い訳は聞かない」
琉璃はぴしゃりと言い放った。
「今日の終業までに全資料を修正、50部印刷して――」
そこで一拍おき、唇の端をわずかに上げた。
「地面に這いつくばって、各部署の担当者に配ってちょうだい」
静まり返るオフィス。
弘一の顔が一気に赤くなる。
「は、這って……ですか?」
「何か異議でも?」
琉璃の目が冗談ではないと物語っていた。
――チン!
《大型羞恥イベントを検出》
《ポイント予測:80〜120ポイント》
弘一の呼吸が止まった。
(そんなに高いのか!?)
唾をゴクリと飲み込み、ふと気づく。これは“稼げる”チャンスかもしれない。
「い、異議ありません! 誠意をもって償います!」
瑠璃は眉をひそめた。どうやら、この即答は意外だったようだ。
「じゃあお願いするわ」
彼女は踵を返して去っていく。
ヒールの音が、まるで心を打つ鞭の音のように響いた。
――
午前中、弘一は必死にデータを修正していた。
昼休み、佐藤がこっそり近づいてくる。
「なあ、社内を這いつくばって配る気か?正気じゃないな」
弘一は苦笑いを浮かべる。
「上の命令だ、やらかしたんだし、逆らえるわけないだろ」
「いや、それにしてもさ……」
「大丈夫」
弘一は声を潜める。
「実は計画があるんだ」
――
午後4時。弘一は50部の資料を抱えて廊下に立つ。
深く息を吸い、ゆっくりと膝をついた。
「行くぞ……」
まずは営業部。
膝を使って“歩き”ながらエリアに入ると、社員たちは一斉に目を見開いた。
「ええーっ、なにしてんの?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません!」
弘一は声を張り上げ、資料を頭上に掲げる。
「修正済みの資料です! ご確認ください!」
営業部部長が唖然としながら資料を受け取った。
「近藤君、そこまでやらなくても……」
「いえ、当然のことです!」
弘一は次の部署へ這い進む。
背後にはざわめきが残る。
「……イカれてる」
「九条部長の逆鱗に触れたんだって」
「うわっ……お気の毒に……」
――ピロリン! ピロリン! ピロリン!
《羞恥ポイント+25(社内公開処刑)》
《羞恥ポイント+30(同僚の視線)》
《羞恥ポイント+15(部長の同情)》
《羞恥ゲージ:150》
弘一は心の中でガッツポーズを取るが、表情はより悲壮になっていた。
財務部前まで這ってきたとき、背後から聞き慣れた冷笑が聞こえた。
顔を上げると――琉璃が腕を組み、ドア枠にもたれて彼を見下ろしていた。
「部長!」
「遅いじゃない」
彼女は冷たく言った。
「このペースじゃ明日になっても終わらないわよ」
弘一は内心焦る。
(もしかして、やりすぎたか……?)
琉璃は急に身を屈め、彼のネクタイを掴んで引き寄せる。
「来なさい」
――
弘一は会議室に引っ張り込まれた。
琉璃は背後で鍵をかけ、彼を壁に押しつける。
「楽しそうね?」
彼女は細めた目で言った。
弘一の心臓が跳ねる。
「な、何のことですか……?」
「最初に膝をついた瞬間、笑ってたわよね」
彼女の指が弘一のネクタイをなぞる。
「気づいてないとでも思った?」
冷や汗が背筋を伝う。
(バレてた!?)
琉璃が顔を近づける。紅い唇が耳元に触れるかの距離。
「でも――」
声に、ふっと艶めいた響きが混ざった。
「そこまで演技が好きなら、もっと本気でやってみせなさい」
――シュッ!
彼女が突然、弘一のベルトを引き抜いた。
「はい!?」
「続けて」
九条はベルトを机に放り投げる。
「口で資料を咥えて、這って配りなさい」
弘一の思考は停止する。
(な、なにこれ!?)
――ピロリン!
《最高レベルの羞恥イベントを検出》
《ポイント予測:200以上》
弘一は喉を鳴らす。
(やるしかない……!)
彼はゆっくりと膝をつき、資料の端を歯で咥える。
琉璃が目を見開いた。
まさか本当にやるとは思わなかったらしい。
「……面白いわね」
彼女はスマホを取り出し、録画を開始する。
「さあ、どうぞ」
――
弘一が這って自席に戻ったときには、もう体力の限界だった。
だが、システムの通知が彼に活力を与える。
《羞恥ポイント+150(最高レベルの羞恥)》
《特別実績解除:部長の注目》
《羞恥ゲージ:300》
(やった……!)
彼は急いで交換画面を開く。
《透視能力(1時間/200ポイント)》
迷わず選択をタップ。
その瞬間、世界の様子が一変した――
壁が透けて見え、同僚たちの骨格や筋肉まで明瞭に。
弘一は慌てて視線を逸らす。が、何気なく視界の端に――
オフィスに入ってきた琉璃が映った瞬間、弘一が凍りついた。
高級なオーダースーツの下に――
柴犬のイラストが入った下着。
「ぷっ!」
弘一は口を押さえた。
(人使いが荒い氷の女部長に……こんな趣味があったなんて!?)
琉璃が何かを悟ったように、刺すような視線を投げてきた。
弘一は大急ぎで顔を伏せて書類作業を装うが、心臓はバクバクだ。
(ヤバい秘密、見ちまった……)