日曜の朝、弘一は原宿駅前に立ち尽くし、腕時計を何度も見下ろしていた。
(十時ちょうど……また遅刻かよ)
そのとき、LINEの通知音が鳴る。送り主は雪菜だった。
「お兄ちゃん、ごめん!(;´д`)ゞ 急な用事が入っちゃって、午後2時に変更できる?」
弘一は安堵の息を漏らす。これなら、夜のクラブの予定にも間に合う。
「OK」とだけ返し、近くのカフェに足を向けた。
店の扉を開けた瞬間、思わず足が止まる。
窓際の席に、九条琉璃がいた。コーヒーをゆっくりとかき混ぜながら、どこか物憂げな面持ちで座っている。
今日の彼女は珍しくカジュアルな装いだった。ベージュのタートルニットに、ダークグレーのペンシルパンツ。髪は緩く肩に垂れ、いつもの冷ややかな鋭さは影を潜め、柔らかな美しさを纏っていた。
(な、なんでここに……!?)
こっそり店を出ようと踵を返した瞬間、九条がゆっくりと顔を上げた。迷いのない視線が、弘一をまっすぐに捉える。
「弘一さん。」
その声は決して大きくはなかったが、静かな店内では妙に耳に残った。
「か、課長……奇遇ですね……」
「……つけてきたのかしら?」
「ち、違います! ただ、人を待ってまして!」
彼のセットされた髪型と小洒落たジャケットに、九条の視線がわずかに動く。
「デート?」
「い、いえっ! 近くに住んでる妹と、成人式の振袖を選びに……」
口にした途端、自分でも嘘くさいと後悔した。
「『人形町』のクラブ、どんな場所か知ってる?」
「えっ、高級な……社交場じゃ……?」
「地下格闘賭博よ。父が株主なの。」
「……は?」
「今夜、サンドバッグが一人足りないの。」
「さ、サンドバッグ……?」
「10分耐えれば、出演料は50万円。」
「え、ええっ……」
「断ってもいいわ。でも──」
そう言って、彼女はバッグから一枚の写真を取り出した。
それは、例の“女装事件”の決定的証拠だった。
血の気が一気に引いていく。
「い、行きます!!」
<羞恥ポイント+100(脅迫による強制)>
<羞恥ゲージ:215>
写真をバッグに戻した九条は、微笑みながらささやくように言った。
「今日の髪型、似合ってるわよ。」
耳元にかかった吐息が妙に艶っぽくて、弘一の顔は見る見る赤く染まっていった。
──午後2時、振袖店。
「お兄ちゃん!これ、どう?」
雪菜がくるりと一回転する。
桜の刺繍が施された淡いピローピンクの振袖が、白い肌を一層引き立てていた。
「……すごく、似合ってるよ。」
「ちゃんと見てないでしょー!」
雪菜が頬を膨らませて詰め寄る。
「さっきから時計ばっかり見て、何か急用?」
「え、いや……ちょっと仕事の、付き合い……?」
「え~? それってもしかして、デート?」
「ぜっっったい違う!!」
「じゃあ、私もついてく!」
「む、無理無理無理!!」
「……最近、お兄ちゃん、私のこと避けてるよね。」
雪菜の声がかすかに震えていた。
「前はさ、毎週みたいに一緒に買い物してくれたのに……」
弘一は言葉を失った。
思えば最近、彼はポイント稼ぎに夢中で、妹との時間をないがしろにしていた。
「ごめん、悪かった。」
彼はそっと彼女の頭を撫でた。
「じゃあさ、今度ディズニーに連れてく。ちゃんと埋め合わせするから。」
「ほんと? 約束だよ! ゆびきり!」
──夜7時50分。
「人形町」の地下クラブ前。
弘一は震える手で拳を握りしめていた。
「こ、ここが……格闘会場……?」
背後から九条が現れる。
「怖い?」
「い、いえ……ルールは?」
「ひとつだけよ──死なないこと。」
錆びついた扉が開くと、爆音のような歓声が飛び込んできた。
リングの中では、筋骨隆々の男たちが容赦なく拳を打ち合っていた。
「こ、これは……殺し合いじゃないか……」
控室で、九条が一枚の紙を差し出す。
「免責同意書よ。サインして。」
目を落とすと、“死亡・後遺症について一切責任を負いません”の文字が並んでいた。
「か、課長……」
「今、逃げたらこの写真、社内回覧板に貼るわよ?」
<羞恥ポイント+50(恐怖+脅迫)>
<羞恥ゲージ:265>
(システム……頼む……!)
<交換完了:「超耐打」スキル(60分)使用開始>
<羞恥値:65>
「今夜の特別マッチ! 九条女王が持ち込んだのは──なんと、サラリーマン!」
スポットライトが弘一を照らす。歓声とざわめきが爆発する中、リングの向こうに現れたのは、100kg超はあるスキンヘッドの巨漢。
「小僧……後悔させてやる。」
ゴングが鳴った刹那、弘一の顔面に拳が炸裂した。
(痛ああああっっ!!!)
骨こそ折れなかったものの、容赦ない痛みが全身を襲う。
繰り返される打撃に必死で逃げ惑う弘一。だが観客の声は容赦ない。
「ザコすぎる!」
「立てよ!チキン!」
「佐藤、食っちまえ!」
<羞恥ポイント+30(公開羞辱)>
<羞恥ポイント+20(無力感)>
九条の冷ややかな視線が、リングの隅から突き刺さる。
(く、くそっ……!)
やがて佐藤が彼の襟を掴み上げた。
「終わりだ!」
巨大な拳が太陽穴を狙って振り下ろされる──その瞬間、弘一の中でスキルが発動した。
(集中! 防御力最大化!)
ガンッ!!
鋼のように固まった頭部が、相手の拳を真っ向から受け止めた。
逆に砕けたのは──佐藤の拳だった!
「ぐああああああっ!!」
雄叫びを上げながら巨漢がひざまずく。
弘一は反射的にタックル、そして頭突き!
ドスンッ──
観客が息を呑む中、まさかのノックダウン。
「10……9……8……」
──1!
「勝者、会社員!!」
「やった……!」
弘一はリングに崩れ落ち、自分の拳を見つめた。
(オレ……勝ったのか……?)
そこへ、九条がリングサイドに歩み寄ってきた。
彼女は目を細め、微笑む。
「おもしろいじゃない、あなた。──今夜、私の部屋にいらっしゃい。」
(な、なにこの展開……!?)