月曜の朝、弘一は腰をさすりながら出社した。
昨夜の「ボーナス授与式」は、格闘技の試合よりも消耗が激しかった。
(あの女……絶対に悪魔だ……)
デスクに腰を下ろすや否や、部署のグループチャットに通知が飛び込んできた。
「今週金曜から日曜まで、社内研修旅行で箱根温泉に向かいます。参加は必須——九条琉璃」
オフィスの空気が一変した。
「箱根!? 本気かよ!」
「部長の別荘があるって噂のあの場所?」
同僚の武藤がニヤニヤしながら弘一の机に身を乗り出す。
「おい近藤、部長となんかあったんじゃねえの~?」
「な、なにもないっ!」
思わず声が裏返る。
——ピロリン!
「恥辱ポイント+10(動揺)」
「恥辱ゲージ:75」
(このままじゃまずい……もっと稼がねば……)
おもむろにシステム画面を開き、「女装」カテゴリの実績に目を走らせた。
——前回の学園祭でのパンツかぶりパフォーマンスは大成功だった。今回もワンチャン……?
そのとき——
「弘一兄ちゃん!」
LINEにメッセージが届く。
送り主は妹の雪菜。添付されていたのは、温泉旅館のチラシだった。
「うちのサークルの温泉旅行も今週末なんだ~!しかも、同じ旅館!奇遇でしょ?」
スマホが手から滑り落ちかけた。
(なんだこの因縁は……!?)
──金曜の夕方。
箱根の温泉街に明かりが灯りはじめた頃、弘一はスーツケースを引いて「琉璃閣」へとたどり着いた。
——九条家所有と噂される高級旅館だ。
「一般社員は西棟、管理職の皆様は東棟でございます」
フロント係が丁寧にカードキーを差し出す。
「なお、弘一様は九条様のご指示によりVIP室へご案内いたします」
「VIP……?」
「はい、女湯のすぐ隣でございます」
ぞわり、と弘一の背筋が粟立つ。
(……絶対に罠だ……)
荷物を置いて間もなく——
「やっほー、おじさん~♪」
浴衣姿の女子大生が三人、にこやかに部屋の戸を開けて現れた。
雪菜のサークル仲間らしい。
「来てるって雪菜から聞いたよ~」
金髪の女子がルーレット式のゲーム機をひらひらさせながら笑う。
「一緒に遊ばない?」
「な、何をする気だ……?」
「ルールはカンタン♪」
彼女たちは部屋に雪崩れ込み——
「負けた人は、女装して混浴温泉を一周!」
(また女装かよ……)
しかし、弘一はふと気づいた。
(いや、これは……羞恥ポイント稼ぎのまたとない機会!)
「よ、よし、やってやる!」
と弘一は勇ましげに座り直した。
「ただし、条件をつけさせてもらう」
「へぇ〜、おじさんノッてきたじゃん!」
「俺が負けたら……雪菜が持ってきた服を着る!」
女子たちは歓声を上げ、すぐに雪菜へ連絡を入れた。
三連敗した頃、雪菜が息を切らしながら大きな紙袋を持って現れた。
「……急いで選んだから、サイズ合わなかったら……」
弘一が袋を覗いた瞬間、目をむいた。
超ミニのメイド服、ガーターストッキング、猫耳カチューシャ。
「こ、こんなもん……」
「雪菜、センス最高!」
女子たちが盛り上がり、彼を更衣室へ押し込む。
——数分後。
「……変じゃないか?」
弘一が恐る恐る姿を現すと、場の空気が一瞬止まった。
雪菜は顔を真っ赤にし、ぷいっと顔をそむける。
「ちょ、超似合ってる……」
金髪の女子が親指を立てる。
「さあ、混浴にしゅっぱーつ!」
「ちょ、ちょっと待て!本気で行くのか!?」
「もちろん、賭けは絶対なの♪」
女子たちに半ば引きずられ、弘一は混浴温泉の入り口へ。
湯気の向こうに人影が見える。
(終わった……社会的に俺は終わった、終了だ……)
そのとき——
「何してるの?」
背後から冷ややかな声が響いた。
場が凍りついた。
廊下の奥に立っていたのは、浴衣姿の琉璃だった。
濡れた長い髪が、彼女がつい先ほどまで温泉に浸かっていたことを物語っている。
彼女の視線が弘一の姿をとらえると、眉がぴくりと動いた。
「ぶ、部長……!」
逃げようとするも、女子たちに道を塞がれる。
琉璃はゆっくりと近づいてくる。
ヒールの音が木の廊下に、コツ、コツ、と響いた。
「ずいぶん楽しそうね」
彼女は弘一のレースチョーカーをくいっと引き、囁くように言った。
「そんな趣味があったの?」
「ち、違いますっ! これはその……罰ゲームで……!」
琉璃はふと顔を弘一の耳元に寄せ、囁く。
「——今夜10時、私の部屋に来なさい」
その瞬間、弘一の膝が崩れ落ちた。
女子たちは一斉に爆笑。
「おじさん、照れてる~!」
「部長、サイコー!」
——ピロリン!ピロリン!ピロリン!
「恥辱ポイント+150(極限女装)」
「特別実績:ダブル羞恥解放」
「恥辱ゲージ:225」
泣きそうな顔で、去っていく琉璃の背中を見送る弘一。
ふと雪菜が、どこか複雑な眼差しを向けていることに気づく。
(これは……完全にやらかした……?)
その夜。
混浴騒動は旅館の支配人の仲裁によって収束した。
が——弘一の女装姿は、学生グループ内で秒速拡散されていった。
そして、夜10時が訪れた。
琉璃の部屋の前に立つ弘一は拳を握り、ノックすべきか迷っていた。
(彼女は……何を望んでる?)
そのとき、静かにドアが開いた。
白檀の香がふわりと漂う。
琉璃はシルクのナイトガウンを纏い、髪を下ろしてそこに立っていた。
日中の冷徹さとは一転、艶やかで柔らかな光をまとうその姿に、弘一はごくりと喉を鳴らす。
「入りなさい」
彼が足を一歩踏み出した、その瞬間——スマホが震えた。
雪菜からのLINE。
「弘一兄ちゃん、部屋の前にいるの。どうしても、話したいことがあるの……」
弘一は思わず息を呑んだ。
背中を伝う汗が、嫌な予感の正体を告げていた。
(な、なんなんだよ……どっち選んでも死ぬやつじゃねえか!?)