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第9話 部長の秘密

弘一の指先がスマホの画面の上で止まった。冷や汗がこめかみを伝い、背筋を冷たいものが走る。


(雪菜が……俺の部屋の前に?今このタイミングで!?)


ドアにもたれかかる瑠璃が、腕を組んだまま、指先で自分の肘をトントンと軽く叩いていた。


その表情には、確かな苛立ちが滲んでいる。


「なに?誰かと約束でも?」


 弘一は慌ててスマホをロックし、背筋を伸ばす。


「い、いえ!仕事のメールが来てただけで……」


鼻で笑った彼女はくるりと背を向け、部屋の中へと入っていく。


「ドア、閉めて」


 観念したように後を追い、静かにドアを閉める。


 部屋は思っていた以上に広く、畳の香り漂う和のしつらえと、洗練されたモダンインテリアが絶妙に融合していた。


九条は棚からグラスを二つ取り出すと、後ろを振り返らずに問う。


「何か飲む?」


「な、なんでも……」


ウイスキーが二杯注がれ、一つが差し出される。


「今日は、楽しめた?」


琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。弘一がそれを受け取ろうとしたその瞬間、指先が彼女の指に触れた。びくっと反応して手を引っ込める。


「えっと……女装の件、ちゃんと説明したくて――」


「何を説明するつもり?」


そう言うや否や、彼女はグラスを口元に運び一口飲んだあと、突然彼のネクタイを掴んだ。


「メイド服のこと?」


力強く引かれ、彼の身体は自然と彼女の方へと傾く。二人の顔が、呼吸の距離まで迫る。


「それとも――」

赤い唇が彼の耳元すれすれに囁く。


「私の下着を覗いた理由かしら?」


 血の気が引いた。


(バレてる!?なぜ――)


「と、とにかく透視能力には制限があってですね!その、悪用はしてないです!」


 瑠璃は鋭い目を細めると、ネクタイを放した。


「跪きなさい」


「え……?」


「聞こえなかったの?跪けって言ったのよ」


弘一の膝が思わず折れかけたが、土壇場で理性が踏みとどまる。


「それはちょっと……」


次の瞬間、彼女は引き出しからファイルを取り出し、無言で彼の足元に叩きつけた。


何気なく視線を落とした弘一は、全身に寒気が走るのを感じた。


中には無数の写真――女装姿、水をかけられた瞬間、昨夜の格闘場での惨めな顔……彼の「恥」がぎっしり詰め込まれていた。


「説明なさい」


瑠璃は足先で彼の顎をすっと持ち上げる。まるで値踏みするような目線が、突き刺さる。


「なぜこれが、うちの父の元に届いたのか」


思考が真っ白になる。


(九条家のお父様?まさか――)


「お、お父様がクラブの株主だったので……」


「それで、君のことを私の“飼い犬”だと思ったらしいわ」

冷笑が唇に浮かぶ。


「“汚点”だから、“処理”しておけって、そういう指示よ」


 鋭く尖ったヒールの先端が、ゆっくりと彼の胸元に押し当てられる。


「遺言は?」


――ピロリン!


《生死の危機を検知しました》


《恥辱値変換モードを起動します》


本能が、叫んだ。


「お願いします!チャンスをくださいっ!」


弘一は勢いよく琉璃の足にしがみつき、額を彼女の膝に押し当てた。


「お、俺、スパイになります!お父様のこと、調べて報告しますから!」


一瞬の静寂。空気が凍りついた。


琉璃の瞳孔が、わずかに揺れる。


弘一は自分の唐突な行動に驚きつつも、通知に背中を押されていた。


《恥辱ポイント+50(地面に跪いて懇願)》


《恥辱ゲージ:275》

(もう少しで、新スキルが解放できる……!)


琉璃は突然、彼の髪をつかんだ。


「こんな見え透いた演技で、私をごまかせるとでも思ったの?」


その力は強烈だったが、弘一の目は彼女の奥底に走った一瞬の“ためらい”を捉えていた。


(これは、試されてる――)


覚悟を決める。


「最近眠れていませんね。右の肩甲骨の下、三寸のところに古傷があります。毎晩、3時17分に目が覚めているはずです。」


彼女の手が、ぴたりと止まった。

「なぜ、それを――」


「透視能力は、下着だけじゃなくて、筋肉や神経の異常も見えるんです」


視線を外さず、真っ直ぐに見上げる。


「帳簿、クラブの地下室、三枚目のタイルの下にあります」


それは、昨晩偶然視た光景。殴られて転がった先、床越しに映った“秘密”。


九条の表情が、音もなく崩れていく。


彼女は手を放し、ふらりと後退し、手に取った酒瓶をそのまま口に運び、勢いよく飲み干した。


「出て行きなさい」


しかし、弘一は動かなかった。


「出て……」


その声が、震えた。


ようやく気づいた。彼女の目が、わずかに赤く滲んでいる。


酒瓶を握る指が、白くなるほどに力んでいる。


(泣いてる……?)


それは、どんな叱責よりも胸を突く真実だった。


弘一は、ゆっくりと歩み寄り、酒瓶を彼女の手から優しく取り上げた。


「帳簿、お手伝いします」


彼女が顔を上げる。


その瞳に宿るもの――それは、家という牢に閉じ込められ、出口を見失った獣の哀しみだった。


「なぜ?」

声はかすれていた。


弘一は、少しの間考えた末、正直に言った。


「部長がくれる“恥辱値”……いえ、報酬がとても気前のいいもので」


一瞬、沈黙が訪れる。

だがその後、彼女は不意に笑い出した。


その笑みはあまりにも自然で、まるで凍った湖に一筋の春の陽が射し込んだような――そんな、あたたかい裂け目。


「……本当にバカね」


九条は彼の胸倉を引き寄せ――ふわりと、額に唇を落とした。


それは、儚いほどに短い一瞬だった。


「明日朝6時、地下室」


そう言い残し、彼女はバスルームへと歩いていく。


「さっさと、彼女の機嫌でも取ってきなさい」


弘一は呆然と額をさすり、水音が聞こえ始めるまでその場に立ち尽くしていた。

――ピン!


《恥辱ポイント+100(情動)》


《実績解放:部長の秘密》


《恥辱ゲージ:375》


ふらつきながら部屋を出たその先で――


「雪菜?!」


 雪菜が膝を抱えて、部屋の前に座り込んでいた。赤く腫れた目が、彼を捉えると、彼女はぱっと立ち上がる。


「お兄ちゃん!どこ行ってたの――」


その視線が、彼のシャツの襟元で止まる。


そこには、真新しい口紅の痕。


時が、止まった。


「弘一兄ちゃん……」

雪菜の声が震える。


「さっき……誰といたの?」


弘一は口を開いたが、言葉は出なかった。


雪菜の目に、涙があふれた。


彼女はそのまま振り返り、廊下の角へと走り去った。


追いかけようとしたその時、スマホが震える。


《帳簿、忘れないで》

九条瑠璃からのメッセージ。


弘一は壁にもたれ、雪菜が消えた廊下の先を見つめる。


(……俺、何やってんだ……)


《スキル交換:精密観察(24時間/300点)》


《恥辱ゲージ:75》


新たなスキルが発動し、視界に冷たい感覚が走る。


弘一は、苦笑した。


(これが……“修羅場”ってやつか)


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