弘一の指先がスマホの画面の上で止まった。冷や汗がこめかみを伝い、背筋を冷たいものが走る。
(雪菜が……俺の部屋の前に?今このタイミングで!?)
ドアにもたれかかる瑠璃が、腕を組んだまま、指先で自分の肘をトントンと軽く叩いていた。
その表情には、確かな苛立ちが滲んでいる。
「なに?誰かと約束でも?」
弘一は慌ててスマホをロックし、背筋を伸ばす。
「い、いえ!仕事のメールが来てただけで……」
鼻で笑った彼女はくるりと背を向け、部屋の中へと入っていく。
「ドア、閉めて」
観念したように後を追い、静かにドアを閉める。
部屋は思っていた以上に広く、畳の香り漂う和のしつらえと、洗練されたモダンインテリアが絶妙に融合していた。
九条は棚からグラスを二つ取り出すと、後ろを振り返らずに問う。
「何か飲む?」
「な、なんでも……」
ウイスキーが二杯注がれ、一つが差し出される。
「今日は、楽しめた?」
琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。弘一がそれを受け取ろうとしたその瞬間、指先が彼女の指に触れた。びくっと反応して手を引っ込める。
「えっと……女装の件、ちゃんと説明したくて――」
「何を説明するつもり?」
そう言うや否や、彼女はグラスを口元に運び一口飲んだあと、突然彼のネクタイを掴んだ。
「メイド服のこと?」
力強く引かれ、彼の身体は自然と彼女の方へと傾く。二人の顔が、呼吸の距離まで迫る。
「それとも――」
赤い唇が彼の耳元すれすれに囁く。
「私の下着を覗いた理由かしら?」
血の気が引いた。
(バレてる!?なぜ――)
「と、とにかく透視能力には制限があってですね!その、悪用はしてないです!」
瑠璃は鋭い目を細めると、ネクタイを放した。
「跪きなさい」
「え……?」
「聞こえなかったの?跪けって言ったのよ」
弘一の膝が思わず折れかけたが、土壇場で理性が踏みとどまる。
「それはちょっと……」
次の瞬間、彼女は引き出しからファイルを取り出し、無言で彼の足元に叩きつけた。
何気なく視線を落とした弘一は、全身に寒気が走るのを感じた。
中には無数の写真――女装姿、水をかけられた瞬間、昨夜の格闘場での惨めな顔……彼の「恥」がぎっしり詰め込まれていた。
「説明なさい」
瑠璃は足先で彼の顎をすっと持ち上げる。まるで値踏みするような目線が、突き刺さる。
「なぜこれが、うちの父の元に届いたのか」
思考が真っ白になる。
(九条家のお父様?まさか――)
「お、お父様がクラブの株主だったので……」
「それで、君のことを私の“飼い犬”だと思ったらしいわ」
冷笑が唇に浮かぶ。
「“汚点”だから、“処理”しておけって、そういう指示よ」
鋭く尖ったヒールの先端が、ゆっくりと彼の胸元に押し当てられる。
「遺言は?」
――ピロリン!
《生死の危機を検知しました》
《恥辱値変換モードを起動します》
本能が、叫んだ。
「お願いします!チャンスをくださいっ!」
弘一は勢いよく琉璃の足にしがみつき、額を彼女の膝に押し当てた。
「お、俺、スパイになります!お父様のこと、調べて報告しますから!」
一瞬の静寂。空気が凍りついた。
琉璃の瞳孔が、わずかに揺れる。
弘一は自分の唐突な行動に驚きつつも、通知に背中を押されていた。
《恥辱ポイント+50(地面に跪いて懇願)》
《恥辱ゲージ:275》
(もう少しで、新スキルが解放できる……!)
琉璃は突然、彼の髪をつかんだ。
「こんな見え透いた演技で、私をごまかせるとでも思ったの?」
その力は強烈だったが、弘一の目は彼女の奥底に走った一瞬の“ためらい”を捉えていた。
(これは、試されてる――)
覚悟を決める。
「最近眠れていませんね。右の肩甲骨の下、三寸のところに古傷があります。毎晩、3時17分に目が覚めているはずです。」
彼女の手が、ぴたりと止まった。
「なぜ、それを――」
「透視能力は、下着だけじゃなくて、筋肉や神経の異常も見えるんです」
視線を外さず、真っ直ぐに見上げる。
「帳簿、クラブの地下室、三枚目のタイルの下にあります」
それは、昨晩偶然視た光景。殴られて転がった先、床越しに映った“秘密”。
九条の表情が、音もなく崩れていく。
彼女は手を放し、ふらりと後退し、手に取った酒瓶をそのまま口に運び、勢いよく飲み干した。
「出て行きなさい」
しかし、弘一は動かなかった。
「出て……」
その声が、震えた。
ようやく気づいた。彼女の目が、わずかに赤く滲んでいる。
酒瓶を握る指が、白くなるほどに力んでいる。
(泣いてる……?)
それは、どんな叱責よりも胸を突く真実だった。
弘一は、ゆっくりと歩み寄り、酒瓶を彼女の手から優しく取り上げた。
「帳簿、お手伝いします」
彼女が顔を上げる。
その瞳に宿るもの――それは、家という牢に閉じ込められ、出口を見失った獣の哀しみだった。
「なぜ?」
声はかすれていた。
弘一は、少しの間考えた末、正直に言った。
「部長がくれる“恥辱値”……いえ、報酬がとても気前のいいもので」
一瞬、沈黙が訪れる。
だがその後、彼女は不意に笑い出した。
その笑みはあまりにも自然で、まるで凍った湖に一筋の春の陽が射し込んだような――そんな、あたたかい裂け目。
「……本当にバカね」
九条は彼の胸倉を引き寄せ――ふわりと、額に唇を落とした。
それは、儚いほどに短い一瞬だった。
「明日朝6時、地下室」
そう言い残し、彼女はバスルームへと歩いていく。
「さっさと、彼女の機嫌でも取ってきなさい」
弘一は呆然と額をさすり、水音が聞こえ始めるまでその場に立ち尽くしていた。
――ピン!
《恥辱ポイント+100(情動)》
《実績解放:部長の秘密》
《恥辱ゲージ:375》
ふらつきながら部屋を出たその先で――
「雪菜?!」
雪菜が膝を抱えて、部屋の前に座り込んでいた。赤く腫れた目が、彼を捉えると、彼女はぱっと立ち上がる。
「お兄ちゃん!どこ行ってたの――」
その視線が、彼のシャツの襟元で止まる。
そこには、真新しい口紅の痕。
時が、止まった。
「弘一兄ちゃん……」
雪菜の声が震える。
「さっき……誰といたの?」
弘一は口を開いたが、言葉は出なかった。
雪菜の目に、涙があふれた。
彼女はそのまま振り返り、廊下の角へと走り去った。
追いかけようとしたその時、スマホが震える。
《帳簿、忘れないで》
九条瑠璃からのメッセージ。
弘一は壁にもたれ、雪菜が消えた廊下の先を見つめる。
(……俺、何やってんだ……)
《スキル交換:精密観察(24時間/300点)》
《恥辱ゲージ:75》
新たなスキルが発動し、視界に冷たい感覚が走る。
弘一は、苦笑した。
(これが……“修羅場”ってやつか)