午前三時。
近藤は畳の上で何度も寝返りを打っていた。
(雪菜……一体、何を話そうとしているんだ?)
(あの口紅の跡……あいつ、絶対に誤解してるよな……)
胸の奥がざわついて眠れない。
スマホを手に取り、LINEを開くと、未読が十数件――すべて雪菜からだった。
最新のメッセージには、こうあった。
「お兄ちゃん、明日の成人式が終わったら、二人で話せないかな?」
たった一行の文面に、感情は読み取れない。
けれど、彼女がそれを打ち込んだ時の顔が目に浮かぶ。
赤くなった目、震える指先、唇を噛みしめながら画面を睨んでいたに違いない。
「わかった」とだけ返事を送り、近藤は天井を仰ぎながら、長い息を吐いた。
スキル《精密観察》の効果で、暗がりの中でも視界ははっきりしていた。
窓の外、夜空から舞い降りる雪片のひとつひとつさえ、軌道を描くように見える。
(……部長のあの傷)
透視したときに映った、肩甲骨下の痕跡。
古い傷が、筋肉ごとねじ曲がるように存在していた。まるで何かに殴打されたような、深く、重いもの。
(あれは、単なる事故じゃない……)
そのとき、スマホが震えた。
「6:00 AM 地下室で。遅れるな。――九条瑠璃」
弘一は、そっと目を閉じた。
───
朝五時五十分。
木の廊下をきしませないよう、細心の注意で足を運ぶ。
旅館はまだ静寂の中にあり、彼の靴音だけが薄闇に響いていた。
地下室の鉄扉は少しだけ開いており、隙間から光が漏れている。
そっと押し開けたその瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。
琉璃が、工作服に身を包んでいた。
腰には拳銃。高く束ねたポニーテールが揺れ、全身からは緊張感と殺気が滲んでいる。
「部長……!?」
彼女は振り返らず、無造作に黒い衣服を投げた。
「着替えて。三分」
手に取った衣服は、肌にぴたりと密着する奇妙な感触。
「……これ、なんですか?」
「繊維製の防弾スーツよ」
ようやく顔を見せた彼女は、次に眼鏡ケースを投げてよこす。
「スマートグラス。録画とスキャンができる」
装着すると視界にデータが溢れ出す。
温度、湿度、壁の厚み。まるでSF映画のような情報空間が、現実に重なった。
「帳簿はクラブの地下二階。金庫の中よ。三重のセキュリティを突破する必要があるわ」
近藤はごくりと唾を飲む。
「俺……ただの会社員なんですけど……」
「今さらビビっても遅いわ」
その一歩に、近藤は思わず後退りしそうになる。
だが“観察”スキルは見逃さなかった。
彼女の睫毛に、乾ききらぬ雫が一粒残っていたことを――
「……聞きなさい」
低く、震える声が続く。
「帳簿には、父が政治家に贈った賄賂の記録がある。それを手に入れれば、私はこの家から自由になれる」
彼女の指先が、無意識に肩の古傷へと触れる。
「十年前、母が階段から落ちた――私は……父が突き落とすのを見たの」
弘一は息を呑んだ。
(……だからあの目だったのか)
静かに尋ねる。
「俺に、何をさせたいんですか?」
瑠璃の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「君の透視能力――金庫の暗証番号を見抜けるわよね?」
───
午前九時、成人式会場の前。
弘一はネクタイを何度も締め直しながら、鼓動を抑え込もうとしていた。
(……マジで盗ってきちまった……)
二時間前。命がけの潜入劇。
琉璃とともに金庫に忍び込み、透視能力で帳簿を発見。
そのページを撮影し、全身を冷や汗でびしょ濡れにして戻ってきた。
「弘一兄ちゃんっ!」
その声に、振り返った瞬間――時が止まった。
雪菜。
純白の振袖に身を包み、真珠の飾りが結い上げた髪に揺れる。
唇は淡く染まり、瞳は星のように澄んでいた。朝の光がその輪郭を柔らかく縁取り、幻想的なまでの美しさを放っている。
「ど、どうかな……似合ってる?」
袖口を握るその手が、ほんの少し震えている。
「……きれいだよ」
正直、見とれていた。
雪菜はにっこりと微笑むと、勢いよく彼の手を取った。
「来て!」
人混みをすり抜け、たどり着いたのは神社の裏手――一本の古い桜の木。
冬だというのに、枝先にはいくつか花がほころんでいた。
「“誓いの桜”っていうの。ここで想いを伝えると、神様が祝福してくれるんだって」
弘一の胸が跳ねた。
(まさか……ここで?)
彼女は彼の前に立ち、両手をぎゅっと胸元で握りしめた。
「昨日の話……ちゃんと続き、言わせて」
その瞳はまっすぐに、揺らぐことなく彼を見据えていた。
「“罰ゲーム”は嘘。でも、話したことは……本当だったの」
一枚の花びらが、雪菜の髪にそっと舞い落ちる。
「ずっと前から……お兄ちゃんのことが好きだったの」
弘一の思考が止まる。
――ピロリン!
《羞恥ポイント+200(告白)》
《特殊実績解放:初恋の重み》
《羞恥ゲージ:275》
雪菜がそっと背伸びし、彼の唇にキスを落とした。
柔らかく、温かく、淡いチェリーの香りがした。
弘一はそのまま、身動きできなかった。彼女の存在が、自分の世界をすべて覆っていた。
(俺……何やってんだ……)
(十二も年下だぞ……)
(だけど……)
気づけば、彼は雪菜の腰に腕をまわしていた。
「弘一兄ちゃん……」
彼女は胸に顔をうずめ、小さく呟いた。
「部長のこと……知ってるよ。」
全身が凍りついた。
「でも……いいの」
顔を上げた雪菜の瞳には、涙と微笑が共に宿っていた。
「ぜったい、お兄ちゃんを振り向かせてみせるからっ!」
言葉が出なかった。
そのとき、スマホが震えた。
《帳簿、検察に提出済み。父は逮捕された。今夜、部屋に来て。話がある。――九条瑠璃》
腕の中の雪菜と、画面に表示されたメッセージ。
どちらも現実。どちらも逃げられない。
(俺の人生……どこに向かってんだよ……)
《スキル交換:極冷モード(1時間/200点)》
《羞恥ゲージ:75》
脳内に冷水のような感覚が流れ込み、思考が澄みわたる。
弘一は、乾いた笑みを漏らした。
(――これが修羅場ってやつか。超能力がなけりゃ、やってられん)