成人式の夜。
雪菜を送り届けた弘一は、部屋に上がってお茶をする甘い誘いを、迷いながらも断った。
――これ以上、関係をこじらせるわけにはいかない。
そんな言い訳を心に繰り返しながら、彼はその場を離れる。
マンションの前に佇み、彼はふと見上げた。
最上階、琉璃の部屋――部屋に柔らかな琥珀色の明かりが灯っており、女性のシルエットがガラス越しにゆっくりと動いていた。
そのとき、ポケットのスマートフォンが不意に震えた。
表示された名前に、胸がざわつく。
《爺ちゃん》
「どうしたの、じいちゃん?」
「弘一!またあの連中が! 今度はブルドーザーまで持ってきやがった!」
切迫した祖父の声に、全身の血が一気に冷えた。
「なにっ?! 今すぐ――」
続くのは、ガラスが砕ける音。
荒々しい男の怒鳴り声。
祖母の悲鳴。
そして――通話は一方的に、途切れた。
「おじいちゃん!? ……おじいちゃんッ!!」
返ってきたのは、無慈悲な話中音。
弘一はスマホを握りしめた手に力を込め、機械がきしむ音を感じた。
――くそっ!
エレベーターに駆け込み、彼は何度も閉ボタンを叩きつけるように押した。
わずかな上昇時間、彼の頭は激しく回転していた。
ついに来た――開発業者が、本気を出してきた。
祖父母のリンゴ園は、あの地域で唯一、まだ買収されていない土地。
何度か脅されていた。
「売らないなら、どうなるか分かってるよな」と――エレベーターが開くなり、彼は扉を突き破るように駆け出し、琉璃の部屋へ飛び込んだ。
「部長! 休暇をください、今すぐ北海道へ行かないと!」
琉璃は窓辺でワインを手にしていた。
今日の彼女は、シルクのルームウェアをまとい、肩にかかる髪は緩やかに波打ち、いつもの鋭さよりもどこか柔らかい空気をまとっていた。
「理由は?」
息を切らしながらスマホを突き出す。
「祖父母が絡まれてるんです! 強制撤去に来た開発業者が強引に――ブルドーザーまで!」
彼女は通話履歴を一瞥し、眉をひそめた。
「その土地、価値はあるの?」
「開発業者にはただの計画の一部。
でも、祖父母には……一生のすべてなんです!」
声が震え、目の奥が熱を帯びる。
「お願いします、どうしても行かせてください!」
「落ち着きなさい」
琉璃はワイングラスをテーブルに置き、静かに立ち上がった。
「今あなただけが突っ込んで行って、何ができる? ブルドーザーに体当たりでもするの?」
そのまま机に向かうと、手早く小切手に文字を走らせた。
「三百万円。
これでとりあえず、奴らを退かせることはできる」
「そ、そんな大金……受け取れません!」
「勿論、タダというわけにはいかないわ」
琉璃は冷たく言い、小切手を彼の胸元に突きつけた。
「その土地の権利を10%、私に譲って」
「え……それって……」
「投資よ」
指先が、彼の襟元をなぞる。
「あなたの経歴は知ってる。
農大卒、果樹園管理の実績あり。
開発業者に吸い上げられるくらいなら、高級ブランド果樹園として育てていくべきじゃない?」
弘一の脳裏に、リンゴ園で働く祖父母の姿が浮かぶ。
腰を曲げながらも、笑顔を浮かべていたあの姿――
(果樹園を、守れるなら……)
彼は深く、頭を下げた。
「ありがとうございます。
必ず返します……!」
琉璃は鼻で笑った。
「航空券はもう取ってあるわ。
二時間後、羽田発よ」
彼女は寝室を指差す。
「着替えて。
送っていくから」
ベッドにはカジュアルな服と旅行用バッグ。
中には下着、洗面道具、すべて揃っていた。
――まさか、来るのを読まれていた……?
支度を済ませてリビングに戻ると、琉璃はすでにコートを羽織り、玄関に立っていた。
そのスマホには、さっき届いたLineが点灯していた。
「琉璃姉ちゃん、私、お兄ちゃんと付き合うことになったよ!(^▽^)」
送り主:雪菜
弘一の息が止まる。
琉璃は表情一つ変えず、画面をスリープにすると、黙って背を向けた。
「行くわよ。遅れるわ」
――
タクシーの中でも、弘一の思考はさきほどの一文を反芻していた。
(……言っちゃったのか、雪菜)
(ていうか、ふたりって知り合いだったのかよ)
横目で、隣に座る琉璃を盗み見た。
彼女は車窓の外をじっと見つめている。
ネオンの光が頬を照らし、氷のような冷たさを纏っていた。
「部長……雪菜さんとは、どういう関係で?」
「私のいとこよ」
――脳がフリーズした。
「な、なんだって!?」
「驚くことかしら?」
彼女は冷笑を浮かべた。
「あなた、私の家系を調べてたんじゃなかった?」
「い、いや、その……」
「雪菜の母親は、私の父の妹。
両親は長年海外勤務だから、幼い頃は私が育てたの」
(……まさか、雪菜が言ってた“すごいお姉ちゃん”って……)
「ってことは……僕と雪菜のことも?」
「知ってたわよ」
彼女の目が、鋭く光る。
「あなたが初めて、彼女の入浴を覗いた日から」
「ち、違うんです! 誤解です! あのとき湯気がすごくて、何も見えてないんです!」
――ピロリン!
羞恥ポイント+50(黒歴史)
羞恥ゲージ:125
突然、琉璃が弘一の顎をぐっと掴んだ。
「よく聞きなさい。
北海道の件が終わったら、ケリをつける」
爪が肌に食い込み、声が低くなる。
「雪菜ときっぱり別れるか、それとも――」
唇が彼の耳元に近づき、熱い吐息が耳たぶをなぞった。
「私と主従契約を結ぶのよ」
弘一の瞳孔が、限界まで開く。
(な……なんだその悪魔のような選択肢!?)
――
3時間後、札幌空港。
吐く息が白く凍る。
風は容赦なく頬を打つ。
スマホが震えた。琉璃からのメッセージ。
「車は手配済み。
3番出口で運転手が待ってる」
「覚えておいて。
持ち時間は72時間だけよ」
ポケットの中、小切手をぎゅっと握る。
目の前には、雪に覆われた山々が広がっていた。
(……じいちゃん、ばあちゃん。絶対、守る)
スキル発動:「超耐久」(72時間/150ポイント)
羞恥ゲージ:0
能力発動の熱が、全身を駆け巡る。
弘一は3番出口へ、力強く歩を進めた。
(たとえ相手がブルドーザーでも、ヤクザでも……もう、俺は絶対に退かない!)