札幌駅前。
街路を覆う雪は静かに白く積もり、吐息さえも凍りそうな朝。
弘一は駅前に立ち尽くしたまま、さきほどの伝言を反芻していた。
(……掃除屋か)
冗談だと笑い飛ばすワードが、バッグに詰まった2500万円の重みとともに、現実味を持ってのしかかってくる。
九条家の名が、ただの資産家の枠に収まらないことを、今さらながら痛感した。
弘一は祖父に電話をかけた。
「お金は用意できた。今から帰る。絶対に外へは出ないで」
通話を切ったあと、迷いながらも琉璃へ一通のメッセージを送る。
「忠告ありがとう。リンゴ園の件が済んだら、約束を果たすよ」
送信した直後、自分の言葉があまりにも意味深だったことに気づき、慌てて補足を打ち込む。
「もちろん、お金を返すことだよ」
だが、彼女から返ってきたのは――
「写真は保存済み。あなたの選択、楽しみにしてるわ」
添付されていたのは、弘子のどアップ写真だった。
弘一はスマホを握りしめたまま、雪の中で小さく呻いた。
リンゴ園に戻った頃には、あたりはすっかり黄昏に包まれていた。
室内に入り、旅行バッグをテーブルの上に置いた瞬間、祖父母の動きが止まった。
「こ、これは……!? まさか、全部……?」
「明日、奴らと話をつける。俺が終わらせる」
だがその矢先、祖父が激しく咳き込み、顔は真っ赤に火照っていた。
「昨日、水をかぶってブルドーザーの前に立ったからな……」
祖母が涙ながらに語る中、弘一は薬箱を開けた。
しかし、出てくるのは期限切れの薬ばかり。
(まずい……)
彼は、残された羞恥ポイントに最後の希望を託す。
「交換:軽度回復(50ポイント)」
掌から伝わるぬくもりが、祖父の胸に染み渡っていく。
呼吸が安定し、顔色にも少しずつ赤みが戻った。
「……なんだか、急に楽になったような気がするのう」
ほっとしたのも束の間、窓の外からエンジン音が響いた。
カーテンの隙間から覗くと、果樹園の外れに黒いスーツの男たちが三人。
無線機を片手に、何やら連絡を取っている様子。
(……早い)
琉璃に電話をかけるが、繋がらない。
(まさか、東京でも動きが――?)
翌朝。
果樹園の前に、高級車が並んだ。
黒塗りのベンツが、白雪の中で威圧感を放つ。
先頭の車から降り立ったのは、見るからにガラの悪そうな禿げ頭の男。
「聞いたぜ。金をかき集めたそうじゃねぇか。偽札じゃないだろうな?」
弘一は無言でバッグを開き、束を突きつけた。
「三千万、ここにある。条件はひとつ――この土地に二度と手を出すな」
男は鼻で笑いながら契約書を睨みつけ、やがて顔を歪ませて呟いた。
「バカが……金ですべて解決できると思うなよ」
指を鳴らす。
その合図とともに、黒服たちが一斉に動き出し、弘一を取り囲む。
「金はもらう、土地ももらう。ついでに……お前の命にも値がついてる。二倍だ」
(やはり……九条の父が動いたか)
その瞬間――
空気が震えるような轟音が上空から降ってきた。
見上げると、ヘリコプター。
機体の側面には、はっきりと刻まれたロゴ――「九条グループ」
雪煙を巻き上げながら、ヘリはリンゴ園の隣の空地にゆっくりと着地する。
ドアが開き、現れたのは、純白のファーコートと赤いハイヒールをまとった女。
雪の中でも一分の隙もない、堂々たるその姿。
九条琉璃。
そのサングラス越しの視線が、場の空気を凍らせる。
「遅れてごめんなさい」
「ぶ、部長……!?」
一歩、また一歩と男たちの前へと歩を進め、サングラスを外した。
「まさか、忘れたとは言わせないわよ?」
「九条……お、お嬢様……」
「この果樹園は、九条グループの保護下にある」
彼女は男の胸元に名刺を滑り込ませ、爪先で喉元をなぞるように触れた。
「依頼主に伝えて。次に手を出したら――海外口座の件、国税に通報するわ」
その一言で、男の顔色が真っ青に変わる。
仲間を引き連れ、逃げるように去っていった。
騒然とした空気の中、弘一はようやく現実に意識を戻す。
「東京の件は片付いたから、ついでに来たの」
琉璃は足元の現金に目を落とす。
「……競馬、当たったのね?」
「ああ……でも、なんで知って――」
彼女は無言でスマートフォンを見せた。
画面には――
弘子姿で馬券を握りしめた姿。
「競馬の掲示板でトレンド1位よ。“推し馬のために女装した勇者”だって」
――ピロリン!ピロリン!
「羞恥ポイント+50(社会的に終了)」
「羞恥ゲージ:70」
弘一の視界がかすむ。
(……まともな人生、終わった……)
すっと耳元に顔を寄せ、琉璃が低く囁いた。
「東京に戻ったら――契約、履行してもらうわ」
紅い唇が、彼の耳たぶをかすめた。
雪風がヘリの周囲を巻き上げる。
そして、その中で弘一の腕に残されたのは――
一通の封筒。金の箔押しが施された重厚な紙には、こう記されていた。
「九条グループ 北海道リゾート開発事業 提携意向書」
(果樹園の危機は……去った)
(けれど、俺の本当の試練は……これからだ)