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第15話 九条家

 午後六時、弘一は九条家の門前に立ち尽くしていた。喉が張りつめるように渇き、掌にはじっとりと汗が滲む。


 都心の一等地に佇む和洋折衷の邸宅。その広大な門構えは、彼のアパートの全体をあっさり呑み込むだろう。石畳の先に広がるのは、手入れの行き届いた枯山水。黒服の警備員が無言で招待状を受け取り、目を通す。


「弘一様、携帯電話と所持品をお預かりいたします」


 思わず眉をひそめた。「……九条部長のご指示でしょうか」


「旦那様のご命令です」


 ためらったのも束の間、弘一は観念したようにスマホを差し出した。警備員の一人が頷き、門を開ける。庭園を抜けるその時だった――彼の“精密観察”能力が、二階のカーテンの隙間に潜む影を捉える。琉璃だった。無表情で、冷え切った瞳で、じっと彼を見下ろしていた。


(何を、企んでやがる……)


 豪奢な宴会場に足を踏み入れた瞬間、場の空気がわずかに揺れる。金襴緞子を纏う紳士淑女たちが優雅に談笑していたが、安物のスーツ姿の男が現れたことで、一斉に視線が集まった。


「この男が、琉璃の“飼い犬”らしいわよ」

「女装写真で脅してるって聞いたけど……」

「場違いにも程があるな」


――チン、チン!


「恥辱値+20(上流階級からの蔑視)」

「恥辱ゲージ:120」


 弘一は微笑すら浮かべず、会場を見渡した。琉璃の姿を探すより先に、空気が突然凍りつく。


 ――コツ、コツ。


 杖の音を刻むように、白髪の老人が入場した。漆黒の和装に身を包み、龍の彫刻が施された杖を握りしめている。左頬には、戦を生き抜いたかのような醜い裂傷。その眼光は、鷹のように鋭かった。


(まさか……あれが九条家の家長か)


 老人は迷うことなく弘一の前に立ち、低く唸るような声を放つ。


「……お前か。我が息子を牢にぶち込んだというのは」


 ぞわり、と背筋が冷える。頭の奥で警報が鳴る。――帳簿の一件がバレたのか?


 その瞬間、琉璃が静かに隣に現れた。


「祖父様、こちらは弘一弘一。私の部署の、極めて有能な部下です」


 淡々とした声音。しかし、弘一の目は見逃さなかった。彼女の右手がかすかに震えていることを。


「有能、ねえ……聞こえてくるのは“抜け目ない”という話ばかりだが」


 老翁は冷笑を浮かべると、杖の先で弘一のネクタイを突いた。


「礼服の一つもまともに着こなせん男が、九条家の門をくぐるなど笑止千万!」


 嘲笑が宴会場を包み込む。


――チン!


「恥辱値+30(公衆の面前での屈辱)」

「恥辱ゲージ:150」


 その時、琉璃が唐突に弘一の腕を取った。


「祖父様、私がわざとこう着せましたの。犬に、人間の服はいりませんから」


 その言葉に、弘一の心臓が一瞬止まる。冗談か?それとも――裏切り?


 老人の目が細められる。


「ふむ……ようやく分かってきたようだな」


「はい、もちろんです」


 琉璃が指を鳴らす。執事が運んできたのは、大型のディスプレイ。再生されたのは――弘一が女装で競馬場を歩き、賭けていた映像だった。


「こんな男、九条の名を穢すだけ。せいぜい玩具がお似合いよ」


 琉璃はそう吐き捨てると、弘一の胸を押し退けた。


「ご満足いただけましたか?」


(……本気で俺を売ったのか?)


 だが――老人は一転して爆笑した。


「ははっ!それでこそ九条の娘だ!」


 拍手と共に言い放つ。


「料理を運べ!今夜は、琉璃と伊藤家の婚約を発表する!」


 弘一が顔を上げた時、琉璃の瞳がわずかに揺らめいた。――助けて、そう語っていた。


(そうか……そういうことか)


 最初の前菜が配られた時、弘一は静かにナイフを取り、ステーキを突き刺した。


「……おぉ、柔らかい!コンビニの弁当とは段違いだな!」


 咀嚼音をわざと大きく鳴らす。ざわ……と会場に波紋が広がる。


 続けてグラスを“手が滑って”倒し、隣席のドレスに赤ワインをこぼす。


「いやあ、すみません。滑りやすいグラスでして!」


 さらに立ち上がった勢いで給仕とぶつかり、皿が派手に割れた。


――チン!チン!チン!


「恥辱ポイント+50(粗野な振る舞い)」

「特殊実績:鴻門宴の乱入者を解除」

「恥辱ゲージ:200」


 琉璃が激昂したふりで叫ぶ。


「弘一!今すぐ出ていきなさい!」


 彼女は腕を掴み、庭園へと連れ出す。そして人目の届かぬ桜の木の下で、男を強く壁に押しつけた。


「……よくやったわ」


 その吐息は彼の唇に触れるほど近く、目には微かな焦りの色すら見える。


「次、勝手に動いたら――本気で殺すわよ」


「はは……あなたの祖父の目の方が、今は殺意MAXだったけどね」


 琉璃が笑みを漏らす。「伊藤家との婚約は潰した。で、褒美」


 彼女の指が喉元をなぞるように滑る。


「教えてあげる。雪菜、こっちに向かってるわよ」


「……はっ?」


 琉璃はするりと一歩引き、冷たい表情で告げた。


「3分以内に裏口から消えなさい。もし妹に手を出したら――」


 彼女は喉をかき切る仕草をして踵を返す。


 呆然としていた弘一のポケットで、返却されたスマホが鳴り出した。


(着信:雪菜)


 震える指で通話を取る。


「……もしもし」


「お兄ちゃんっ!? 琉璃お姉ちゃんの家の人が、私、中に入れないって……!」


 彼女の泣き声が胸に刺さる。


 弘一は邸宅を見上げた。窓越しに、琉璃が祖父に叱責されながらも、背をぴんと伸ばして立ち尽くしている姿が見える。


(あいつ……わざと雪菜を呼んで、俺に逃げ道を作ったのか)


「……雪菜、落ち着いて。俺は無事だ。今日は先に帰ってくれ。明日、ちゃんと迎えに行く」


「でも……っ」


「信じて」


 電話を切り、弘一は最後にもう一度だけ、九条家の明かりを見上げた。


(この姉妹、どれほどの秘密を抱えている……?)


 彼は画面を開いた。


「スキル使用:姿を消す(60分/150点)」

「羞恥ゲージ:50」


 能力が発動した瞬間、弘一の姿は夜の闇へと溶けていった。


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