午後六時、弘一は九条家の門前に立ち尽くしていた。喉が張りつめるように渇き、掌にはじっとりと汗が滲む。
都心の一等地に佇む和洋折衷の邸宅。その広大な門構えは、彼のアパートの全体をあっさり呑み込むだろう。石畳の先に広がるのは、手入れの行き届いた枯山水。黒服の警備員が無言で招待状を受け取り、目を通す。
「弘一様、携帯電話と所持品をお預かりいたします」
思わず眉をひそめた。「……九条部長のご指示でしょうか」
「旦那様のご命令です」
ためらったのも束の間、弘一は観念したようにスマホを差し出した。警備員の一人が頷き、門を開ける。庭園を抜けるその時だった――彼の“精密観察”能力が、二階のカーテンの隙間に潜む影を捉える。琉璃だった。無表情で、冷え切った瞳で、じっと彼を見下ろしていた。
(何を、企んでやがる……)
豪奢な宴会場に足を踏み入れた瞬間、場の空気がわずかに揺れる。金襴緞子を纏う紳士淑女たちが優雅に談笑していたが、安物のスーツ姿の男が現れたことで、一斉に視線が集まった。
「この男が、琉璃の“飼い犬”らしいわよ」
「女装写真で脅してるって聞いたけど……」
「場違いにも程があるな」
――チン、チン!
「恥辱値+20(上流階級からの蔑視)」
「恥辱ゲージ:120」
弘一は微笑すら浮かべず、会場を見渡した。琉璃の姿を探すより先に、空気が突然凍りつく。
――コツ、コツ。
杖の音を刻むように、白髪の老人が入場した。漆黒の和装に身を包み、龍の彫刻が施された杖を握りしめている。左頬には、戦を生き抜いたかのような醜い裂傷。その眼光は、鷹のように鋭かった。
(まさか……あれが九条家の家長か)
老人は迷うことなく弘一の前に立ち、低く唸るような声を放つ。
「……お前か。我が息子を牢にぶち込んだというのは」
ぞわり、と背筋が冷える。頭の奥で警報が鳴る。――帳簿の一件がバレたのか?
その瞬間、琉璃が静かに隣に現れた。
「祖父様、こちらは弘一弘一。私の部署の、極めて有能な部下です」
淡々とした声音。しかし、弘一の目は見逃さなかった。彼女の右手がかすかに震えていることを。
「有能、ねえ……聞こえてくるのは“抜け目ない”という話ばかりだが」
老翁は冷笑を浮かべると、杖の先で弘一のネクタイを突いた。
「礼服の一つもまともに着こなせん男が、九条家の門をくぐるなど笑止千万!」
嘲笑が宴会場を包み込む。
――チン!
「恥辱値+30(公衆の面前での屈辱)」
「恥辱ゲージ:150」
その時、琉璃が唐突に弘一の腕を取った。
「祖父様、私がわざとこう着せましたの。犬に、人間の服はいりませんから」
その言葉に、弘一の心臓が一瞬止まる。冗談か?それとも――裏切り?
老人の目が細められる。
「ふむ……ようやく分かってきたようだな」
「はい、もちろんです」
琉璃が指を鳴らす。執事が運んできたのは、大型のディスプレイ。再生されたのは――弘一が女装で競馬場を歩き、賭けていた映像だった。
「こんな男、九条の名を穢すだけ。せいぜい玩具がお似合いよ」
琉璃はそう吐き捨てると、弘一の胸を押し退けた。
「ご満足いただけましたか?」
(……本気で俺を売ったのか?)
だが――老人は一転して爆笑した。
「ははっ!それでこそ九条の娘だ!」
拍手と共に言い放つ。
「料理を運べ!今夜は、琉璃と伊藤家の婚約を発表する!」
弘一が顔を上げた時、琉璃の瞳がわずかに揺らめいた。――助けて、そう語っていた。
(そうか……そういうことか)
最初の前菜が配られた時、弘一は静かにナイフを取り、ステーキを突き刺した。
「……おぉ、柔らかい!コンビニの弁当とは段違いだな!」
咀嚼音をわざと大きく鳴らす。ざわ……と会場に波紋が広がる。
続けてグラスを“手が滑って”倒し、隣席のドレスに赤ワインをこぼす。
「いやあ、すみません。滑りやすいグラスでして!」
さらに立ち上がった勢いで給仕とぶつかり、皿が派手に割れた。
――チン!チン!チン!
「恥辱ポイント+50(粗野な振る舞い)」
「特殊実績:鴻門宴の乱入者を解除」
「恥辱ゲージ:200」
琉璃が激昂したふりで叫ぶ。
「弘一!今すぐ出ていきなさい!」
彼女は腕を掴み、庭園へと連れ出す。そして人目の届かぬ桜の木の下で、男を強く壁に押しつけた。
「……よくやったわ」
その吐息は彼の唇に触れるほど近く、目には微かな焦りの色すら見える。
「次、勝手に動いたら――本気で殺すわよ」
「はは……あなたの祖父の目の方が、今は殺意MAXだったけどね」
琉璃が笑みを漏らす。「伊藤家との婚約は潰した。で、褒美」
彼女の指が喉元をなぞるように滑る。
「教えてあげる。雪菜、こっちに向かってるわよ」
「……はっ?」
琉璃はするりと一歩引き、冷たい表情で告げた。
「3分以内に裏口から消えなさい。もし妹に手を出したら――」
彼女は喉をかき切る仕草をして踵を返す。
呆然としていた弘一のポケットで、返却されたスマホが鳴り出した。
(着信:雪菜)
震える指で通話を取る。
「……もしもし」
「お兄ちゃんっ!? 琉璃お姉ちゃんの家の人が、私、中に入れないって……!」
彼女の泣き声が胸に刺さる。
弘一は邸宅を見上げた。窓越しに、琉璃が祖父に叱責されながらも、背をぴんと伸ばして立ち尽くしている姿が見える。
(あいつ……わざと雪菜を呼んで、俺に逃げ道を作ったのか)
「……雪菜、落ち着いて。俺は無事だ。今日は先に帰ってくれ。明日、ちゃんと迎えに行く」
「でも……っ」
「信じて」
電話を切り、弘一は最後にもう一度だけ、九条家の明かりを見上げた。
(この姉妹、どれほどの秘密を抱えている……?)
彼は画面を開いた。
「スキル使用:姿を消す(60分/150点)」
「羞恥ゲージ:50」
能力が発動した瞬間、弘一の姿は夜の闇へと溶けていった。