午前一時。
新宿・ゴールデン街の裏路地にて。
弘一はゴミ箱の脇に腰を下ろし、スマホ画面を無言で見つめていた。
残高表示には、2500万円。
そして琉璃から受け取った300万円を足しても、目標の3000万円には届かない。
――あと200万。果樹園の借金は返したが、再建の資金がまだ足りない。
そんな時、スマホが震えた。見知らぬ番号から、一通のメッセージ。
「金欠? 地下格闘場で“耐打ち役”を募集中。一試合50万。――連絡先:黒崎」
添付された住所は、池袋にある廃ビル。
弘一は眉をひそめた。あの競馬場での女装騒動以降、怪しげなオファーは絶えなかった。
だが今回の文言には、妙な現実味があった。
(……50万? 俺の月給を軽く超えてるじゃないか)
逡巡のあと、弘一はメッセージに返信していた。
***
池袋の廃ビルは、壁一面に落書きが広がっていた。入口前には、タトゥーだらけの大男が二人、無言で睨みを利かせて立っている。
「新人か?」
一人が弘一の痩せた体を見下ろしながら、不敵に笑う。
「まずは免責契約にサインな」
差し出された書類には、たった一文のような条項が書かれていた。
――死亡しても、一切責任を負いません。
「ルールは?」
「5分間、気絶しなけりゃ勝ちだ。ただし、3分も持った奴はいねえ」
金歯をギラつかせて笑う男の顔に、弘一は無言でサインした。
(……システム、“超耐久”の上位スキルを交換!)
「交換:超耐久+痛覚鈍化(3時間/200ポイント)」
「――羞恥ポイントが足りません」
(クソッ、あと150ポイント……)
目を上げると、廊下の壁に貼られた告知が目に飛び込んできた。
【罰ゲーム募集】
犬の首輪を着用し、四つん這いで入場すれば、報酬が倍額になります。
(……やるしかない)
***
数分後。
弘一はトゲ付きの革製首輪をつけ、観客の爆笑とフラッシュの中、四つん這いでケージに這い出た。
「うわっ、マジで来たよ犬っころ!」
「撮れ撮れ! バズり確定!」
羞恥が全身を焼いた。
――ピロリン! ピロリン!
《羞恥ポイント+100(極端な羞恥)》
《羞恥ゲージ:150》
(これで足りる!)
すぐさまスキルを交換し、肉体に異変が走る。
筋肉が凝縮し、神経が鈍る。これならいける。
「ラウンド1!」
「餓虎 vs クズ犬!」
二メートルはあろうかという筋肉の塊がケージに現れる。
客席は大歓声に包まれた。
「ちっこいの、後悔しながら沈めてやるよ」
ゴングとともに、巨漢の拳が迫る――!
ドガッ!
鉄柵に叩きつけられた弘一。しかし、痛くない。
(……成功だ)
ふらりと立ち上がり、唇の端をつり上げた。
「……それだけか?」
観客がどよめき、巨漢が激怒する。
嵐のようなラッシュが襲うが、弘一の体はゴムのように打撃を吸収した。
(余裕がある……相手の隙も見えてくる)
「2分30秒!」
「まだ立っているぞ、新人!」
観客の声が驚きへと変わっていく。
5分が経過した瞬間、弘一はまだ立っていた。巨漢は肩で息をしている。
「勝者――クズ犬!」
弘一は首輪を外し、100万円の小切手を受け取った。
観客が顔に浮かべているのは、もはや嘲笑ではなかった。
黒崎が歩み寄る。
「明日、“デスマッチ・車輪戦”がある。10ラウンド耐えりゃ、500万だ。どうだ?」
弘一は血を模した塗料をぬぐい、低く答えた。
「乗った」
***
朝焼けが東の空を染めるころ、弘一は再びスマホを確認した。
《羞恥ポイント+150(パフォーマンス)》
《現在の羞恥値:300》
(あと一日、もう一稼ぎすれば果樹園は救える)
その時、スマホが鳴る。画面には“雪菜”の文字。
「お兄ちゃん、どこにいるの!? 一晩中、連絡取れなかったんだよ……!」
未接着信が十数件。胸が締めつけられた。
「ごめん、会社で残業してて――」
「うそつき!」
「琉璃お姉ちゃんが、帰ってないって言ってた! 本当に、大丈夫なの!?」
弘一は一瞬、答えに詰まり、それでも優しく言った。
「ほんとに、大丈夫だよ。明日、会って話そう。な?」
通話を切ると、すぐに琉璃からのメッセージが届く。
「命がけで稼ぐなら、棺桶も忘れずに」
添付されていたのは、首輪をつけて四つん這いになっている自分の写真。
弘一は思わず苦笑した。
(この女……どこまで見てんだか)
***
その翌晩。
鉄ケージの中、弘一は再び立っていた。
今度は5人との車輪戦。
しかも、使用武器は「鉄器材OK」。
3人目が鉄パイプを手に取った瞬間――
《スキル:痛覚鈍化 終了》
(……切れた!?)
鋼の一撃が背中を襲い、痛みが脳を貫いた。視界が霞み、膝が崩れる。
「お兄ちゃん!!!」
群衆の喧騒を切り裂くような、泣き叫ぶ少女の声。
弘一は意識を手繰り寄せるように顔を上げた。鉄柵の外に、涙を流しながら必死で門を揺らす雪菜の姿があった。
(なぜここに……?)
視界が白んでいく中で、彼が最後に見たのは、琉璃が護衛を率いて会場に突入してくる姿だった――