鼻をつく消毒液の匂いの中で、弘一は静かに目を開けた。
白い天井、吊るされた点滴パック。視界の端で人影が揺れた。
「目が覚めた?」
右側から聞こえたのは、あのよく通る声。
琉璃が白衣姿で、無造作にまとめた長い髪を揺らしながら、カルテを手に立っていた。
ここがどこか、ようやく弘一は理解した。——高級診療所のVIP病室。静けさと重苦しさが同居する空間だった。
「部長、俺……」
「肋骨三本にヒビ。脾臓は軽く出血。あと三十分搬送が遅れてたら、今ごろあんたは冷たくなってたわ」
冷えた声音が、体温よりも痛みを呼ぶ。
弘一は身を起こそうとしたが、胸の奥から激痛が突き上げ、思わず息を呑んだ。
「雪菜は……?」
「着替えに帰ったわ。一晩中、そばにいたのよ」
カルテを閉じた琉璃のハイヒールが、点滴のチューブを優しく、しかし意味深に踏みつけた。
「じゃあ、説明してもらおうか。どうして妹が、あんな場所にいたのかしら?」
弘一は言葉を失い、唇を噛んだ。
だが、次の瞬間——
琉璃が身体を屈め、紅い唇が彼の耳元に近づく。
「あなた、あの子の香水がついているわね」
背筋が凍る。
彼女の爪が、ゆっくりと鎖骨をなぞる。
「北海道にいたあの日の夜。リンゴ園の倉庫で——いったい何を?」
——ピロリン!
《恥辱ポイント+100(秘密露見)》
《恥辱ゲージ:400》
「……雨宿り、してただけで……」
「嘘ね」
スマートフォンが掲げられる。
画面に映るのは、雪菜が弘一にキスする瞬間の一枚。
「診療所の監視カメラには、もっと生々しい映像が残ってるけど? ……見せてあげようか?」
声の色は甘いが、棘がある。
弘一は目を閉じた。
(終わった……)
その時——
ガチャッ!
「弘一兄ちゃん!」
雪菜が保温容器を抱えて飛び込んできた。
琉璃の姿に気づくと、その表情が一瞬で強張る。
「琉璃お姉ちゃん……? どうしてここに……」
「社員の見舞いよ——それよりあなた、夜通し家を空けて、父親に黙っていないでしょうね?」
雪菜の頬から血の気が引いた。
弘一は慌てて口を挟む。
「雪菜、俺は大丈夫だから、今日はもう……」
「イヤ!」
彼女は泣きそうな顔で、弘一の腕にぎゅっとしがみついた。
「看病は私がするの!」
琉璃の目がすうっと細くなる。空気が、凍りついた。
「ふふっ、面白いじゃない」
琉璃は静かに微笑んだ。
「弘一、どうやらあなた——答えを出したのね」
彼女は踵を返し、ヒールの音を鳴らしてドアへと歩き出す。
「部長、違うんです! 誤解です!」
必死に叫ぶ弘一に、琉璃は背中越しにひらひらと手を振った。
「3日後、辞表を持ってオフィスに来て」
扉が閉まった瞬間、雪菜が涙をこぼした。
「ごめんなさい、私のせいで……!」
弘一は痛みに耐えながら、彼女の背をさすった。
「いや……違う。そうじゃない」
「実は……」
涙をぬぐいながら、雪菜はカバンから一束の書類を取り出した。
弘一が目を通すと、それは——北海道農業振興基金の助成契約書。
そこには、ちょうど五百万円の金額が記されていた。
「わ、私……おじいちゃんの知り合いを頼って、どうにか資金を……」
「これで、リンゴ園、助かるよ!」
弘一の胸に熱いものが込み上げた。
(この子……ずっと影で俺を支えてくれてたんだ……)
衝動的に、雪菜を抱きしめる。
「ありがとう……本当に……」
彼女の体が小さく震えたかと思うと、顔を上げた。
「お兄ちゃん、琉璃お姉ちゃんとは……どんな関係?」
弘一の動きが止まる。
(どうする……主従関係? 恥辱システムと答えるか?)
悩んだ末、彼は苦笑してつぶやいた。
「ちょっと……複雑な関係でね」
雪菜は黙って頷いた後、ふっと耳元へ顔を寄せて囁いた。
「じゃあ……私とは?」
ふっとかかった甘い息に、弘一の胸には電撃のような衝動が走った。
——ピロリン!
《恥辱ポイント+50(恋のもつれ)》
《恥辱ゲージ:450》
(このタイミングでポイント加算って……!)
返答に困っていると、病室の扉が再び開いた。
「面会時間は終了です」
看護師の声に、雪菜はしぶしぶ立ち上がる。
ドアの前でふと振り返り、そっと口を動かした。
「……明日は成人式なの。来てくれる?」
弘一は頷いた。
雪菜は満面の笑みを浮かべ、「だいすき」と口パクし、静かに扉を閉じた。
静まり返った病室。弘一はベッドに仰向けのまま、天井を見つめた。
次の瞬間、スマホが震えた。
【明日の成人式、私も出席するわ】
【覚悟しておいて】
琉璃から届いた一行の文字が、鋭利な刃となって胃の奥に突き刺さる。
地下格闘で喰らった一撃より、よほどこたえた。
《スキル交換:高速回復(200点)》
《羞恥ゲージ:250》
癒しの力がじんわりと身体を包み、痛みは引いていく。
けれど弘一の口元には、乾いた笑みしか浮かばなかった。
(治ったところで何になる。必要なのは、修羅場を乗り切れる“運”だ……)