夜明け前。
クローゼットの前で、弘一は指先を迷わせていた。
――紺のスーツは、去年雪菜がくれた誕生日プレゼント。
――黒のArmaniは、九条琉璃が「うっかり」彼の部屋に置いていったもの。
(……どっちを着て行ってもまずいじゃないか)
悩みに悩んだ末に選んだのは、ごく普通のグレーのスーツだった。
ただ、襟元に雪菜から贈られたクリスタルのラペルピンをひっそりと添えた。
――ピロリン!
「恥辱ポイント+30(優柔不断)」
「羞恥ゲージ:280」
(……このシステム、やっぱ読心術がある)
東京会館の前、真紅のカーペットが百メートル以上にわたって伸びている。
受付で招待状を差し出した瞬間、係の男が眉をひそめた。
「申し訳ありません、お客様の衣装がドレスコードに適しておりません」
周囲を見渡せば、男性は皆、格式高い紋付き羽織袴。
スーツ姿の弘一はまるで江戸時代に迷い込んだ現代人。
「弘一兄ちゃん!」
軽やかな足音と共に、雪菜が駆け寄ってくる。藤の花を刺繍した薄桃色の振袖に、珊瑚の簪が揺れて、思わず息を呑んだ。
「更衣室に行こう!」と自然に腕を絡められる。
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
「九条家の次女じゃないか?」
「なんであんな男と……?」
――ピロリン!
「恥辱ポイント+20(格差)」
「羞恥ゲージ:300」
更衣室では、雪菜が背伸びして、彼の礼装を丁寧に整えてくれる。
ほのかに香るクチナシに、意識がふらつく。
「琉璃お姉ちゃん、正殿で待ってるよ」
「……えっ?」
蝶ネクタイが喉を絞めた。
「“ケリをつける”とか何とか言ってた」
彼女の指が、彼の胸元に円を描くように滑る。
正殿。九条琉璃が報道陣のフラッシュを浴びていた。
漆黒の留袖に、真珠の簪が冷たく光を返すその姿は、彫刻のように近寄りがたかった。
視線が合うや否や、琉璃は笑みを浮かべた。
「少し、話をしましょうか」
襖が閉まると同時に、彼女は彼のネクタイをぐいと引き寄せる。
「……随分と、余裕ね。あの子のラペルピンをつけてくるなんて」
「部長、それは……」
「――最後通告よ」
一枚の書類が彼の胸に叩きつけられる。
「ここに署名して、シンガポール支社に異動。それが嫌なら――」
一枚の写真が滑り落ちた。そこには、首輪をつけ四つん這いで這う自分の姿が。
「明日には経済紙の一面。“九条グループの社員、裏の顔”ってタイトルになる予定」
琉璃の紅い唇が、耳元へと近づいた。
(……社会的に死ぬか、国外追放か)
と、そのとき。
「琉璃お姉ちゃん! お父様が呼んでる!」
雪菜の声が襖の外から響いた。
琉璃はさっと身を引き、襖が開いた瞬間、雪菜は弘一の蒼白な顔に目を見張った。
会場の空気は、張りつめた氷のよう。
「家族からの贈り物」の時間。
まず立ち上がったのは九条家の家長だった。
「琉璃には、伊藤製薬の株式10%を贈る」
ざわめく場内。婚約の宣言に等しい。
琉璃は無表情で礼をしながらも、瞳は鋭く弘一を射抜いていた。
続いて雪菜。
「雪菜には……北海道のリンゴ園の所有権をやろう」
弘一の目が見開かれる。それは、命がけで守ったあの果樹園だ。
「おじいちゃん、それは弘一さんにって――」
「黙れ!」
老人の怒声が響く。
「姉さんは家のために婚約したというのに、お前はしがない一平社員と仲良くしているそうじゃないか。恥を知れ!」
弘一が立ち上がろうとしたその瞬間、琉璃のハイヒールが足の甲を踏みつける。
「辞表、もう出したそうね?」
琉璃は優雅に微笑んだ。
四方八方から浴びせられる視線。雪菜の涙。
琉璃のかかとの圧力。家長の冷酷な目。
――ピロリン!
「恥辱ポイント+500(究極の選択)」
「特殊実績達成:修羅場サバイバー」
弘一は、深く息を吸い――
「雪菜さんを、僕にください!」
土下座。額が畳にぶつかる音が響く。
琉璃の手にしたグラスが、砕けた。
(……システム、鉄壁防御を!)
「交換:絶対防御(300点)」
<羞恥ゲージ:500>
琉璃のビンタが飛ぶ―― だが、その手は、弘一の頬の1センチ手前で、止まった。
動揺を隠せない彼女の目。
弘一はその手首を掴み、そっと囁く。
「部長。お父様の海外口座の暗証番号、雪菜の誕生日ですよね」
帳簿整理中に見つけた、決定的な弱点。
琉璃の顔が、ゆっくりと崩れていく。
「弘一兄ちゃん!」
雪菜が飛び込んでくる。泣きながら、彼にしがみつく。
「駆け落ちしよう!」
弘一は、彼女を見て微笑んだ。
「いや、堂々と君を迎えに行くよ」
彼女にキスを落とすその背後――
琉璃の足音が、ドアを乱暴に叩きつける音と共に消えていく。
――ピロリン!
「最終任務達成」
「隠し実績解放:人生ゲーム勝者」
(……これで何もかも終わった。でも――悔いはない)