銀座のパークハイアット。
その最上階スイートルームには、緊張感が漂っていた。
藤原健一は、高価な葉巻を水晶製の灰皿にねじ込むと、目の前の男に静かに問いかけた。
「……面白い。九条家の企業機密と引き換えに、儂の政界への影響力を欲するか?」
わずかに視線を逸らすも、弘一は眼差しで切り返す。
「いいえ。その引き換えに欲しいのは、彼女たちの自由です」
一瞬の静寂ののち、藤原が豪快に笑い出した。
「ハッ、まるでドラマの主人公が言うセリフじゃな! 百年の歴史ある九条家が、こんな写真ごときで揺らぐとでも?」
弘一は答えず、黙ってスマホを差し出した。
そこには映像が再生されていた――九条家の当主が、自らの口で妻の殺害を認める決定的な音声。
藤原の笑みが、まるで氷のように固まる。
「……どこで手に入れた?」
「それは重要ではありません」
弘一は無造作にUSBメモリをテーブルに置く。
「中には、あの男の二十年間の不正記録がすべて入っています。宝石協会を丸ごと掌握するのに十分な内容ですよ」
藤原の指が無言でテーブルを叩く。やがて低く問いかけた。
「……条件を聞こう」
「一つ、九条琉璃の政略結婚の話を白紙に戻すこと」
「二つ、雪菜に北海道のリンゴ園を返還すること」
「三つ目は……」
弘一は深く息を吸い込んだ。
「その後の後始末のため、一週間だけ猶予をいただきたい」
藤原の目が細まり、その奥に洞察の色が灯る。
「……若造、何をするつもりだ?」
弘一は黙って横に視線を送る。その先で、雪菜が静かに彼の手を握っていた。
彼女の瞳には、揺るぎない信頼が宿っていた。
三日後。
東京地検特捜部が九条グループに家宅捜索を実施。
家主は殺人容疑で現行犯逮捕――そのニュースは、瞬く間に日本中を駆け巡った。
テレビでは、臨時会見の場に新社長として現れた九条琉璃の姿があった。
漆黒のスーツに身を包み、鋭い視線と沈着な声で語る。
「九条グループは、全面的に捜査に協力し、被害者遺族のための補償基金を設立いたします」
客席の片隅では、キャップを深く被った弘一が、無言で彼女を見つめていた。
そのスマホが、ひときわ小さく震える。
──「今夜8時、いつもの場所で」
銀座の会員制バー「Luna」、その奥のVIPルーム。
琉璃は一束の書類を弘一の前へ滑らせる。
「航空券、パスポート、スイスの口座情報。ヨーロッパで一生困らないだけの資金も含めてあるわ」
弘一はその書類に目もくれなかった。
「……部長は、俺を日本から追い出したいんですか?」
「違うわよ」
琉璃は冷笑を浮かべた。
「これは口止め料。誤解しないで」
彼女のハイヒールが、わざとらしく弘一の足をかすめる。
「雪菜は明日、イギリスへ留学するわ。もし本気で彼女を思っているのなら――」
だがその言葉を遮るように、弘一は彼女の足首をつかんだ。
「……妹さんは、ご存じなんですか? 部長が、俺のことを……好きだってこと」
グラスが床に落ち、砕ける音がルームの静寂を裂く。
「……な、なにを言ってるの!」
「じゃあどうして、俺が雪菜に近づくたびに“恥辱値”が急上昇してるんですか?」
弘一はスマホの画面を琉璃に見せる。
そこには彼女の感情の波が、克明に記録されていた。
琉璃の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「……あなた、最初から……」
「覚えてますか? 俺たちが初めて会った日」
「七年前の新人研修会で、部長に『コーヒーもまともに淹れられないの?』って叱られた時――あの瞬間、俺はもう恋に落ちてたんです」
琉璃の睫毛が微かに揺れる。
「……じゃあ、雪菜は?」
「彼女とは“契約恋人”でした。二人を守るための偽りの関係です」
弘一はもう一度スマホを操作し、録音を流した。
「お姉ちゃんが幸せになれるなら、私は……身を引く」
雪菜の声が、静かに、けれども確かに響いた。
琉璃はその場に座り込み、握った拳に爪を食い込ませる。
「……ほんと、バカね。二人とも」
彼女の瞳から零れた雫は、静かに重ねた二人の手を濡らした。
翌朝、成田空港。
雪菜がスーツケースを引きずりながら、全速力で駆けてきた。
「弘一兄ちゃん!お姉ちゃんから、全部聞いたよ!」
封筒を差し出しながら、彼女は笑顔で続ける。
「これ、果樹園の地契! あとね……」
つま先立ちになり、耳元にそっと囁く。
「お姉ちゃん、大学の頃からずっと弘一兄ちゃんのこと好きだったんだって」
弘一が遠くを見やると、ベンツの横に寄りかかる琉璃が、サングラスの奥からほのかに微笑んでいた。
彼は雪菜の頭を優しく撫でる。
「ロンドンに着いたら、無事を知らせてくれよ」
「うん!」
そう言って雪菜は、彼の頬にそっとキスをした。
「未来のお義兄ちゃんへの、さよならのプレゼント!」
──ピロリリリン!
《最終ミッション達成》
《実績解除:真実の愛forever》
飛行機が雲を突き抜けてゆく。
その下、弘一は九条琉璃に歩み寄り、手に持った地契を軽く揺らして見せた。
「部長、北海道の果樹園に……投資しませんか?」
冷たい仮面を取り払うように、琉璃はサングラスを静かに外し、ぬくもりを含んだ微笑みを浮かべた。
「……いい加減、琉璃と呼びなさい」