成田空港での別れが、まるで夢のようにずっと胸に残っている。
夜風に吹かれながら、弘一は東京タワーの展望台に立っていた。
手には、二枚の入場券。
くしゃりと軽く握りしめたそれは、彼の心の迷いを映すようだった。
背後から聞こえてきたのは、記憶に染みついた高いヒールのリズム。
彼は振り返らず、静かにため息をひとつつく。
「部長、17分の遅刻ですよ」
風に乗って届いた声は、どこか冷ややかで、しかし懐かしさを孕んでいた。
「取締役会が長引いたの」
九条琉璃は、いつもの冷徹な黒ではなく、深い藍色のワンピースを纏っていた。
夜風に揺れる髪が、月明かりにふわりと踊る。
弘一はそっと視線を向けた。
戦う女の鎧を脱いだ彼女は、展望ガラスに映る自分の髪をそっと整えるような、そんな些細な仕草にも戸惑いを見せていた。
「それで?」
腕を組み、東京の夜景を見つめながら彼女は言う。
「どうして、わざわざこんなところで?」
「“口止め料”を、お渡しに来ました」
弘一はポケットから小さな箱を取り出し、静かにその蓋を開いた。
そこには、飾り気のないペアリングが一対、静かに並んでいた。
一瞬だったが、彼女は息をするのを忘れていた。
「正気じゃないわね」
彼女は背を向け、足早に歩き出そうとする。
「明日には、伊藤家と婚約の話が——」
「伊藤製薬は買収の撤退を発表しました」
その言葉とともに、弘一はそっと彼女の手首を掴む。
「藤原健一が、彼らの株を15%取得したんです」
「……何をしたの?」
振り返った琉璃の瞳には、怒りとも驚きともつかない光が宿っていた。
「ただ、藤原さんに面白いものをお見せしただけです」
弘一が差し出したスマホには、伊藤社長が記者会見で深々と頭を下げ、財務不正を認める姿が映し出されていた。
琉璃の目に驚愕の色が浮かぶ。
「全部……最初から仕組んでいたの?」
「部長が初めて僕に“恥辱値”をくれた日から、僕の人生は変わりました」
彼はそう言って、指輪を彼女の指先にそっと押し当てた。
夜風が彼女の髪の香りを運ぶ。
弘一はそっと身をかがめ、言葉を紡ごうとした。
「琉璃さん、僕は——」
「黙りなさい」
琉璃は、そっと人差し指を彼の唇にあてがった。
「そんな言葉は、式のときまで取っておきなさい」
夜空に瞬く光が彼女を優しく包み、透けるような耳朶は紅く染まり、まるで宝石のようだった。
──ピロリン!
「最終実績達成:真実のキス」
「システム通知:本プログラムは10秒後に自動アンインストールされます」
スマホの画面に表示されたカウントダウンを見つめながら、弘一はふっと笑みをこぼした。
(そうか……最大の“恥”って、自分がとっくに恋に落ちていたってことを認めることなんだな)
カウントが静かに終わりを迎えた瞬間、彼の唇が彼女に触れた。
長い想いと覚悟を込めた、たった一度の口づけだった。
東京の夜景は、光の波紋のごとく彼らの足元に広がり、始まりを告げた社畜の逆襲伝説を鮮やかに照らし出していた。
【最終章・真愛編・完】